2012年2月アーカイブ

アカデミーを去った俳優たちは、アカデミーが不当にも自分たちを代表していることに腹を立て、自分たちの利益がワシントンの公聴会で処理されるやり方に不満でした。

彼らは、アカデミーは「プロデューサーが支配する団体」になったと主張しました。

言うまでもなく、アカデミーの会員数は劇的に減少し、その存在そのものが脅かされるに至った。

当時のAMPASの会長フランク・キャプラは、残っている者を、「きわめて忠実な、アカデミー優先の夢想家で、アカデミーの切り札となった文化的な認知と保存に身を捧げている」と、評しました。

1935年5月27日、最高裁判所がローズヴェルトの国家産業復興法は憲法違反と言明しました。
しかしながらSAGは、1936年3月5日の第8回の賞の晩餐会をボイコットするようにと伝え、結果として、セレモニーにはごくわずかの会員しか出席しなかった。

労働争議は次の数年間もつづいたが、キャプラの統率によってアカデミーは生き残った。

1939年、各組合は勝利を収め、アカデミーの会員は、新しく組み立てられた「理論と事実のうえで非商業的で非政治的な」規約の下、ふたたび増加しはじめました。

これ以後、アカデミーの中心は、好んでそうしたわけではないものの、文化的で教育的なものとなった。

サマンサ・マシス

AMPASの機能的および歴史的な重要性については昔も今も議論が絶えない。

まだ何人かの評論家は、AMPASはアーティストたちが統一した契約を獲得するのを助けたから、産業関係のうえで強力な力を持ったと思っています。

彼らは、AMPASが、当初望まれていたような、労働組合ではなかったと強調しています。

しかし、にもかかわらずAMPASは、集団交渉の原則を導入し、のちには、それが種々の組合すべてに採用されました。

第2次大戦中は、国の政治的な状況が産業の関心を圧倒し、アカデミーと組合の争議はおさまった。

戦後、会員は劇的に増加しました。

すなわち、1939年には600名の会員であったものが、1947年には1433名、1952年は1600名、1956年には1770名となった。

1960年代には、いっそうの地位の上昇が見られ、1959年の2084名が、1968年は3030名となった。

現在アカデミーには、4523名の会員がいます。

サマンサ・マシス

エリートの組合(サマンサ・マシス)

アカデミーは名誉的な組織として設立されました。

会員資格は、今も昔も招聰によってのみ認められます。

まさに当初からハリウッドの創造的なエリートの組合を作ろうと考えられていたのです。

アーティストたちは、「映画産業への貢献が抜きん出ていて、アカデミーの会員が同朋として迎えたいと思ったときに」加わるよう招聰されます。

アカデミーの規約の第1条第2項は、会員資格を明文化しています。

すなわち、「映画産業の製作部門において、直接的ないしは間接的に、顕著な業績を達成するか顕著な地位を得たもの、あるいは、同じく貴重な貢献をした者で、優れた品性と人間としての評価の高い人物は、理事会の投票か資格委員会の推薦によりアカデミーの現役会員となることができる」ということです。

サマンサ・マシス

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