特集インタビュー:「映画カフェ」は何を語るのか

映像ディレクターでありながら「映画カフェ研究者」というユニークな肩書きを持つ田松良太氏。全国に点在する「映画喫茶」や「映画バー」の歴史を紐解き、閉館した映画館の跡地利用を支援するネットワーク作りにも奔走しています。なぜ彼は、失われゆく「スクリーンの残り香」を追い続けるのか。その原点と、全国で芽吹いている新たな映画文化の萌芽について話を伺いました。

「失敗の歴史に宿るロマン」

編集部:田松さんは、なぜそれほどまでに「映画カフェ」や「映画館の跡地」に惹かれるのでしょうか?

田松良太(以下、田松氏): 一言で言えば、それは「失敗の歴史」だからです。映画館という巨大な文化装置が、時代の波に押されて役割を終えていく。その跡地を守ろう、あるいは別の形で再生しようとする試みは、正直に言って「難行」そのものです。効率や経済合理性だけを考えれば、到底太刀打ちできない。けれど、だからこそ、そこには強烈なロマンがあるんです。かつて人々が同じ光を見つめた場所に、もう一度別の灯をともそうとする人々の営み。私はその「美しき足掻(あが)き」に魅了されているのかもしれません。

「1988年、沼田テアトルの終焉と再生」

編集部:活動のきっかけを教えてください。

田松氏: 1988年の群馬県沼田市での経験が原点ですね。その年、市役所通りにあった老舗の「沼田テアトル」が、32年の歴史に幕を閉じました。1956年に開館し、石原裕次郎や小林旭といった日活映画の黄金期を支えた映画館でしたが、テレビの普及、そして決定打となったビデオの流行には勝てなかった。しかし、物語はそこで終わりませんでした。閉館したテアトルは「多目的ホール」として生まれ変わり、その第一弾として地元の「沼田シネクラブ」が上映会を開いたんです。作品はカンヌ映画祭でグランプリを獲ったユーゴスラビア映画『パパは、出張中』。商業的な興行が立ち行かなくなった場所で、市民の手によって質の高い映画が再びスクリーンに投影される。その光景を見たとき、「形を変えれば、映画の場は生き残れるんだ」と強く確信したんです。

「北の大地から消えゆくスクリーン」

編集部:その危機感は、沼田だけでなく全国的なものだったのでしょうか。

田松氏: 特に北海道の状況は深刻でした。私の父が仕事でよく北海道へ行っていた縁もあり調べていたのですが、1980年代後半、北海道の映画館はまさに激減していました。1989年には岩見沢や江別、根室などから常設館が完全に姿を消した。日本映画製作者連盟のデータでは、1989年末時点で道内の映画館は115館。これは全盛期のわずか6分の1です。背景にあるのは「情報の速度」の変化です。地方では新作が封切られるまでに数ヶ月のタイムラグがあり、その間に札幌の名画座に降りてきたり、レンタルビデオ店に並んだりしてしまう。わざわざ数ヶ月待って地元の古びた映画館へ行くより、ビデオを借りるか、大都市の最新劇場へ行くという選択を人々が取った結果、凄まじいスピードで文化の拠点が失われていきました。

「5時間16分の衝撃『1900年』」

編集部:田松さん自身が、劇場で体験した「最も忘れられない作品」は何ですか?

田松氏: 1993年2月、渋谷東急3で公開されたベルナルド・ベルトルッチ監督の『1900年』ですね。それも、5時間16分に及ぶオリジナル英語版です。地主の息子と小作人の息子の半世紀にわたる友情と確執を描いたこの大河ドラマは、長らく短縮版やイタリア語版でしか観られませんでした。93年の上映は、ついに「本来の姿」で観られるという、ファンにとっては事件のような出来事でした。デ・ニーロ、ドパルデュー、バート・ランカスターら世界の名優たちが並ぶ圧倒的な映像美。あの5時間を超える「密室での映画体験」は、DVDや配信では決して味わえない、劇場の魔力そのものでした。

「鞆の浦、空き蔵が映画カフェになる日」

編集部:最初に感動した、具体的な活動事例は何だったのでしょうか?

田松氏: 2006年に広島県福山市の鞆(とも)の浦で行われた、東京大学の大学院生たちによる提案です。彼らは空き家調査の結果をもとに、空き蔵を「映画館を兼ねたカフェバー(映画カフェバー)」にする案を提示しました。「映画を観る」だけでなく、その前後に「語らう場所」をセットにする。このアイデアこそが、これからの映画文化の生存戦略だと直感したんです。

「滋賀会館シネマホールと『カフェミマン』」

編集部:21世紀の歴史において、特に活発だと感じた事例を教えてください。

田松氏: 滋賀県大津市の「滋賀会館シネマホール」での取り組みが印象深いですね。一度は閉鎖されたホールを市民団体「シネファンク」が引き継ぎ、2006年にはオープンカフェを常設しました。これに先駆け、彼らは「カフェミマン(未満)」という弁当店からスタートしたんです。「いずれは賑わいのあるカフェに」という誓いを込めた名前でした。映画が終わった後、かつてのロビーの趣を残した空間で余韻を楽しむ。そんな「昭和レトロ」な記憶を現代に蘇らせる試みは、多くの観客に支持されました。

「映画で街を元気にする『神戸映画資料館』」

編集部:田松さんといえば神戸での活動も知られていますが、長田区の事例についてはいかがですか?

田松氏: 阪神大震災の被災地・神戸市長田区に誕生した「神戸映画資料館」は象徴的です。商店街の空き店舗を再利用した場所で、30席のシアターの隣には、調理器具や食器も揃う本格的なカフェが併設されていました。過去30年分の「キネマ旬報」が並ぶその空間は、単なる上映施設を超えたファンの聖地となっていました。神戸は日本で初めて活動写真が上映された地。その誇りを胸に「映画で長田を元気にしよう」と奮闘する姿には、大きな勇気をもらいました。

「映画館のない街に灯る交流の場」

編集部:最後に、奈良の映画ファンの奮闘エピソードを教えてください。

田松氏: 2010年、奈良市は「映画館が一軒もない県庁所在地」となりました。しかし、映画への情熱が消えたわけではありません。翌年の「なら国際映画祭」では、カレー店「とうたりんぐ」を期間限定の映画カフェとして開放したところ、夜な夜な多くの市民が集い、映画談義に花を咲かせました。映画館という「場所」を失っても、映画を媒介にした「コミュニティ」は死なない。一杯のコーヒーやカレーを囲んで語らう場があれば、映画文化は形を変えて生き残り続けます。私はこれからも、そうした新しい居場所を作る人たちのネットワークを繋いでいきたいと考えています。

編集後記

田松さんの情熱的な語りからは、単なる懐古趣味ではない、未来を見据えた「文化の再生術」が伝わってきました。