| 受賞 | 作品賞 |
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| 監督賞 ロバート・ワイズ |
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| 編曲賞 アーウィン・コスタル |
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| 録音賞 ジェームズ・P・コーコラン、フレッド・ハインズ |
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| 編集賞 ウィリアム・H・レイノルズ |
| ノミネート | 主演女優賞 ジュリー・アンドリュース |
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| 助演女優賞 ペギー・ウッド (※修道院長の役) |
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| 美術賞(カラー) ボリス・レヴェン、ウォルター・M・スコット、ルビー・レヴィット |
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| 撮影賞(カラー) テッド・マッコード |
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| 衣装デザイン賞(カラー) ドロシー・ジーキンス |
家庭教師として赴任した修道女見習いマリアとフォン・トラップ大佐一家の交流を通して、台頭するナチス・ドイツへの抵抗を高らかに歌い上げたミュージカル巨編。「ドレミの歌」「エーデルワイス」などの名曲で知られる。原作は、実話から着想を得たブロードウェイ舞台劇。
10部門にノミネートされ、作品賞、監督賞、編集賞、編曲賞、録音賞の5部門で受賞。
ロバート・ワイズ監督(兼プロデューサー)は、「ウエスト・サイド物語」に続いて2度目の作品賞&監督賞のダブル受賞に輝いた。
インフレ率を加味した興行収入は、歴代の作品賞受賞作の中で、「風と共に去りぬ」(1939年)に次ぐ堂々の2位。
1965年/アメリカ/174分/原題「The Sound of Music」
原作は、1959年からニューヨークで上演された舞台劇。
主人公マリアの自叙伝「トラップ・ファミリー合唱団物語」に基づいている。
1947年、夫ゲオルク・フォン・トラップが死去(享年67歳、肺がん)。
マリアは一家の歩みをまとめた自叙伝「トラップ・ファミリー合唱団物語」を執筆し、1949年に出版した。
1950年代半ば、マリアは自叙伝の舞台化・映画化権を、西ドイツの映画関係者に9000ドルで売却した。
その権利を基に、西ドイツ映画「菩提樹(ぼだいじゅ)」(1956年)が製作された。
ヨーロッパで大ヒットし、日本でも公開された。
1958年には、一家のアメリカ移住後を描いた続編「続・菩提樹」も公開された。
ミュージカルではなかった。
西ドイツ映画の成功に目を付けた米ハリウッドの大手スタジオ「パラマウント」が、
英語版リメイクの権利を確保する(映画化権を一定期間押さえる「オプション契約」)。
オードリー・ヘプバーンをマリア役に起用することを検討した。
しかし、ヘプバーンの出演が実現せず、パラマウントは企画を断念。映画化権は失効した。
パラマウントの企画を担った演出家ビンセント・ドナヒューが、
米国を代表する舞台女優メアリー・マーティン主演での舞台劇化を提案。
マーティンの夫リチャード・ハリデイと、
舞台プロデューサーのリーランド・ヘイワードが、西ドイツ側の権利保有者と改めて交渉。舞台化権を取得する。
プロデューサー陣は当初、 主人公一家が、合唱団として実際に歌っていた民謡や宗教曲などを劇中で使用する「音楽入りの台詞劇」として構想していた。 そこで、米国ブロードウェイ黄金期を築いてきた伝説のコンビ、作曲家リチャード・ロジャース&作詞家オスカー・ハマースタイン2世に、劇中で使用するオリジナル曲を1、2曲だけ書いてもらうことを考えた。
これに対して、ロジャース&ハマースタインは、 既存のクラシック・宗教音楽と自分たちのブロードウェイ歌曲を混在させる案に難色を示し、 参加するのであれば作品全体のための新作スコアを担当したいと提案する。 制作側がこれを受け入れた後、脚本家リンゼイ、クラウスとの共同作業によって、 合唱シーンだけでなく、 物語上の重要な感情や決断までをも歌で表現する構成が作られ、 本格的なミュージカル劇へと発展した。
当初、劇の仮題は「Love Song」だった。 ハマースタインが劇中歌「サウンド・オブ・ミュージック」の歌詞を書き、 ロジャースが曲を付けた。この作品のために2人が完成させた最初の曲となった。 完成後、ハマースタインが「この曲名を劇全体の題名にすべきだ」と提案し、採用された。 主演は、夫婦で企画に携わった大女優メアリー・マーティン。 演出は、舞台化の発端をつくったビンセント・ドナヒューが担当した。
1959年にブロードウェイ・ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」が開幕。 製作費は約48万ドルだったが、開幕時点ですでに約232万ドルの前売り券を売り上げていた。 当時のブロードウェイでは記録的な前売り額だったという。 1960年のトニー賞では、9部門にノミネートされ、5部門で受賞した。
ニューヨーク公演は、1959年11月から1963年6月まで行われた。 当時としては非常に長いロングランであり、ロジャース&ハマースタイン作品の中でも、「オクラホマ!」「南太平洋」に次ぐ規模のブロードウェイ興行となった。 舞台で使用された歌曲と器楽曲を、初演キャストがスタジオで録音したアルバムも大ヒットした。
舞台劇の大成功を受け、1960年6月、ハリウッドの「20世紀フォックス」が舞台劇の映画化権を125万ドルで取得する。 さらに、競合作品がつくられるのを避けるため、西ドイツ映画2作品に関する権利も同時に取得した。
1962年末、フォックスは、「ウエスト・サイド物語」「王様と私」「北北西に進路を取れ」などの実績があるアーネスト・レーマンを脚本家として起用する。レーマンは、舞台台本を映画用に短縮するのではなく、物語をザルツブルクの実景とナチス併合の歴史のなかに置き直そうと考えた。
1963年11月、レーマンと「ウエスト・サイド物語」でコンビを組み、オスカーを制覇したロバート・ワイズが、監督兼プロデューサーに就任。「舞台版の甘ったる過ぎる部分を抑え、現実の家族と歴史的状況に近づける」という方針で、レーマンとも合意した。
20世紀フォックスは、若い修道志願者から7人の子供の母親へと変化する主人公マリアを、映画界で新鮮に見える女優に演じさせようとしていた。舞台版の初演でマリアを演じたメアリー・マーティンは、映画出演から約20年遠ざかっていた。
脚本家レーマンは、マリア役にはジュリー・アンドリュースが最適だと強く考えていた。当時のアンドリュースは舞台ではすでに一流だったが、映画スターとしてはまだ無名だった。1965年のアカデミー賞で「メリー・ポピンズ」にて主演女優賞に輝くのだが、この段階ではメリー・ポピンズは公開前だった。監督に決まったワイズは、まだ編集段階だったメリー・ポピンズの一部を見せてもらい、直ちに「この娘だ!契約しよう」と即決した。
マリア役が決まると、次に重要となる「大佐」役の選考が本格化。 ワイズ監督は、古典劇俳優として知られていたクリストファー・プラマーを強く推した。 ワイズは、ブロードウェイでクリストファー・プラマーの演技を見たことがあり、「元海軍軍人らしい威厳」などを表現できると思ったという。 ところがプラマーは、大佐のキャラクターが「恐ろしく型にはまった男」だとして拒否。 単なる「厳格な父親」から、悲しみと矛盾を抱えた人物像へと書き直すことを条件に、最終的に承諾した。 歌唱は得意ではないため、歌の部分はプロの歌手に吹き替えられた。
本作が高く評価された理由の一つは、舞台版を忠実に再現するのではなく、舞台劇の素材を使って映画として再設計・再構築したことにある。
劇中歌「ドレミの歌」は、映画ならではの撮影、映像編集、衣装などにより、ドラマ性を高めた。舞台版における「ドレミの歌」は、家庭教師として派遣されたマリアが到着し、子供たちを紹介された直後、同じ日の午後に屋敷の居間で歌われる。
これに対して映画版は、歌の舞台を屋外へ移した。まず、マリアが子供たちを山へ連れ出し、草原で音階を教え始める。そこから、ザルツブルクとその周辺を巡りながら、時間の経過を圧縮して見せる映像構成へと発展していく。1回の練習ではなく、大佐が留守にしていた約1か月間における日々の練習の積み重ねとして描かれている。歌っている間に、子供たちの衣装が何度も変わることも、複数の日にまたがる出来事であることを示している。
父親の号令によって軍隊のように整列させられていた子供たちが、「ドレミの歌」の進展とともに野原、街路、庭園を自由に動き回るようになっていく。その姿は、子供たちの内面の変化を見事に視覚化している。
本作では、歌が始まるたびに物語が止まるのではなく、歌の間にも人物が移動し、成長し、人物同士の関係も変化する。編集を担当したウィリアム・H・レイノルズは、歌、芝居、風景、時間経過を一つの映画として流れるようにつなぐことに成功し、アカデミー編集賞を受賞した。
レイノルズの編集は、歌と台詞の継ぎ目も滑らかにしている。音楽が突然始まったり終わったりする印象が薄く、台詞から歌へ、歌から芝居へと、感情が途切れずに移行する。これが、舞台音楽を借りただけの作品ではなく、「映画として設計されたミュージカル」にしている。
風景や歌唱を味わわせる場面では映像を急いで切り替えず、会話や喜劇的な動きでは軽快に進め、終盤の逃走では緊張を高める。それぞれの場面に適した速度が選ばれている。公開当時の米誌「バラエティ」は、レイノルズの編集を、明るく軽快で「停滞を許さない」と評価した。
レイノルズの編集は、俳優の表情を見せるタイミングも巧みである。大佐が久しぶりに子供たちの歌声を聞く場面では、歌っている子供たち、大佐の表情、それを見守るマリアを切り替えることで、大佐の閉ざされていた心が開いていく過程を、説明台詞なしで伝える。
また、本作は、オーストリアで撮影された外観や風景と、ロサンゼルスのスタジオで撮影された屋敷内部などを組み合わせている。撮影場所も時期も異なる映像を、人物の視線、移動方向、音、台詞、音楽によって連続させ、観客に同じ空間であると思わせている。撮影条件の違いを意識させないことも、編集技術の成功である。
監督・製作者のロバート・ワイズは、もともと映画編集者であり、「市民ケーン」の編集でアカデミー賞候補になった人物である。そのため、撮影段階から「最終的にどの映像をどうつなぐか」を強く意識していたと考えられる。
この評価は後世にも残り、2012年に映画編集者組合が専門家の投票で選んだ「史上最も編集の優れた映画75本」で、本作は64位に入った。
「ドレミの歌」「エーデルワイス」「もうすぐ17才」「マリア」などの有名な劇中歌は、1959年の舞台版から存在した。映画用に新しく書かれたのは、「自信を持って」「何かよいこと」の2曲のみだった。この2曲はオスカーの歌曲賞の対象になり得たが、ノミネートはされなかった。作曲賞(オリジナル・スコア賞)の対象にはならなかった。
一方、本作は編曲賞(Best Scoring of Music—adaptation or treatment)を受賞した。この部門は、既存の歌曲や舞台音楽を、映画の場面・尺・演出に合わせて編曲し、映画全体の音楽として仕上げた仕事を評価する賞だった。
本作では、作曲家アーウィン・コスタルが、ロジャース&ハマースタインによる舞台歌曲を大編成オーケストラ向けに編曲し、その旋律を、台詞やドラマの下に流れる劇伴(映画用のバックグラウンド音楽)へと発展させた。
「エーデルワイス」などの歌曲が歌われない場面でも、その旋律の一部を弦楽器や木管楽器で奏で、マリア、子供たち、大佐の感情を暗示する背景音楽として活用した。
オスカーの俳優部門で2つのノミネートを獲得した。
主人公マリア役のジュリー・アンドリュースが主演女優賞にノミネートされた。前年、映画デビュー作「メリー・ポピンズ」で主演女優賞を受賞したばかりで、2年連続のノミネートとなった。アンドリュースは、歌唱も自身で担当した。
修道院長を演じたベテランのペギー・ウッド(撮影当時72歳)が助演女優賞にノミネートされた。出演時間は短かった。しかし、威厳と慈愛に満ちた表情・仕草で「すべての山に登れ」を歌うシーン(歌声は別人による吹き替え)などが好評だった。大佐役のクリストファー・プラマーは、助演男優賞へのノミネートを逃した。
本作で最も称賛された要素の1つがカメラワークであり、アカデミー賞でも撮影賞にノミネートされた。
本作は65mmの大判フィルム(Todd-AO方式)で撮影された。当時の標準的な映画を凌駕する極めて高い解像度、豊かな色彩、そして深い奥行きを実現した。現在も、「映画撮影の金字塔」として高く評価されている。
アルプスの広大な山岳風景から、ザルツブルクの美しい街並みや歴史的建造物の陰影に至るまで巧みにフレーミングされ、舞台劇であった原作を、映画ならではの壮大なスケールへと拡張した。
とくに冒頭のシークエンスは圧巻で、映画史に深く刻まれている。撮影監督テッド・マッコードは、ヘリコプターを用いた空撮により、アルプス山脈の険しい峰々、澄んだ湖、青々とした草原といった大自然の壮大なパノラマをダイナミックに捉えた。雄大な自然から、丘の上で歌う主人公マリアへと一気に迫る流麗なカメラワークは、彼女の自由な精神と作品の開放的なテーマを視覚的に決定づけている。
「ドクトル・ジバゴ」に敗れ、受賞を逃した。「ドクトル・ジバゴ」は、冷戦下の当時、撮影が不可能だったソ連を、スペインでのロケや屋外セットで再現した。光や色彩の設計などにより、本物のロシアのように見せた。
物語の骨格は実話である。だが、登場人物の性格、恋愛、時間の流れ、ナチスからの逃亡方法など、ドラマの中核部分は大幅に脚色されている。
以下の基本設定は、ほぼ史実だとされる。