年 | 部門 | 受賞者 |
---|---|---|
2024年 | アニメ賞 |
「君たちはどう生きるか」
監督・脚本・原作:宮崎駿 プロデューサー:鈴木敏夫 ジブリの宮崎駿監督にとって「千と千尋の神隠し」以来21年ぶり2度目の受賞。 2013年の「風立ちぬ」を最後に引退すると表明していた宮崎監督が、2016年にこれを撤回し、製作に臨んだ。 視覚的味わい作画開始から完成まで異例の7年という長期間を費やし、マイペースで丹念に作り上げた。 絵のクオリティの高さは健在。 人物などの滑らかな動きや美しい背景美術など、視覚的な味わいに満ちている。巨匠の復帰を大歓迎海外でも高い評価を集め、 引退したはずのレジェンドの復帰に、全米のアニメファン、映画ファンが沸き上がった。 賞レースではニューヨーク批評家賞やロサンゼルス批評家賞といった玄人系の権威ある賞でアニメ作品賞を獲得。 英国アカデミー賞やゴールデングローブ賞でも「スパイダーマン」に勝った。歴代ジブリで最高の米興収商業的にも世界的に成功した。アメリカ(北米)における興行収入は、ジブリ映画として歴代1位を記録。 それまで1位だった「千と千尋の神隠し」の3倍以上を稼いだ。 (参考:河端哲朗氏)過去に2度受賞過去のオスカーでは、2003年に「千と千尋の神隠し」が長編アニメ賞を獲得。 さらに2015年には宮崎監督が個人として名誉賞を授与されている。 |
2024年 | 視覚効果賞 |
「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」
(山崎貴、渋谷紀世子、高橋正紀、野島達司) 映画大国アメリカにおいて「商業」と「批評」の両面で大成功した。 アニメでは珍しくないが、実写の邦画としては歴史的な快挙だった。 怖いゴジラとりわけ高く評価されたのが、視覚効果(VFX)だった。 CG(コンピューター・グラフィクス)によって描いたゴジラは、重厚感がたっぷり。 迫ってくるときの凄み、怖さに加えて、元祖ゴジラを想起させる質感や形も称賛された。銀座の破壊シーンゴジラが暴れる街もVFXで緻密に生成された。 見せ場となる東京・銀座の破壊シーンでは、無数の建物をCGで配置。 ビル一棟一棟について、壁や床の素材や構造をコンピューターに入力したうえで、「壊れて粉々になる」という物理現象を出力させたという。海を歩くシーン海を舞台とするシーンでも、視覚効果の技術が存分に活かされた。 物体や生き物が水の中を移動すると、白く泡立つ波「白波」(ホワイト・ウォーター)が発生する。 巨体のゴジラともなれば、白波のボリュームはとてつもないが、本作ではこれをCGで緻密に描き、実写の海と組み合わせた。 その結果、洋上で迫ってくるゴジラがリアルにに表現され、「海上アクション映画」としても一級になった。3分の2にVFX全体の3分の2程度(尺数ベース)の映像に、 VFX技術が何らかの形で使われたという。格安の製作費&わずか35人製作費はわずか30億円程度で、ハリウッド大作と比べれば超格安。 しかも、VFXスタッフは35人。ハリウッドなら数百人規模も珍しくない。 技術的にも日本の視覚効果技術は米国に大きく劣ると思われていた。感情に響く映像技術それだけに、ゴジラ-1.0の仕上がりの良さはアメリカのファンを驚かせた。 最近の米国製SF大作に物足りなさやマンネリ感を覚えていた人たちも惜しみなく喝采を浴びせた。 最終的には、細かい技術うんぬんというより、 観客の感情をとらえ、揺さぶる力が、物を言ったのだろう。 創意工夫力、センスの良さ、こだわりの強さの勝利か。VFXの名手・山崎貴監督本作は、視覚効果を得意とする山崎貴監督の集大成となった。 山崎監督は日本を代表する「VFXの名手」として有名。 「ALWAYS 三丁目の夕日」で昭和30年代の街並みをVFXで丸ごと構築し、 その続編ではCG製ゴジラも登場させた。 「永遠の0」ではゼロ戦の戦闘シーンを再現。 「海賊とよばれた男」では、東京大空襲で町が火煙に包まれるシーンをCGで描いた。遊園地のゴジラもさらに、埼玉県の「西武園ゆうえんち」でゴジラをテーマとする乗り物アトラクションの映像を手掛けた。 本作では、過去の作品で蓄えたノウハウを全てぶつけたという。白組制作には、山崎氏自身が所属する映像制作会社「白組」のVFXスペシャリストが集結。 いつも通り山崎監督が自ら視覚効果を陣頭指揮。 長年にわたり山崎作品の視覚効果を支えてきた渋谷紀世子氏が、 全体のまとめ役となるVFXディレクターを務めた。 |
2022年 | 国際映画賞 |
「ドライブ・マイ・カー」 (監督:濱口竜介) 日本映画として2009年の「おくりびと」以来13年ぶりの国際映画賞。 通算6作目(日本とロシアが共同出資した黒澤明監督「デルス・ウザーラ」を含む) 本作は、国際映画賞のほかに、作品賞、監督賞、脚色賞の主要3部門にもノミネートされた。このうち作品賞ノミネートと脚色賞ノミネートは、邦画として史上初めての快挙だった。 <受賞スピーチ> |
2020年 | メイク&ヘア賞 |
辻一弘(カズ・ヒロ)
「スキャンダル」 2度目の受賞。主演メーガン・ケリーや助演ニコール・キッドマンらの特殊メイクを担当。「モデルとなったニュースキャスターにそっくりだ」と米国民を驚愕させた。 伝説の特殊メイク家映画の特殊メイクの世界的な第一人者であり、レジェンド。京都生まれ1969年京都生まれ。商店街の魚屋の従業員の息子。 子供のころから機械いじりや模型づくりに没頭。 映画「スター・ウォーズ」(1977年)に感動し、書店の洋書コーナーで海外の映画雑誌を読みふけるようになる。高校のとき見たSF雑誌に、俳優ハル・ホルブルック(「大統領の陰謀」のディープ・スロート役)が、特殊メイクによってリンカーン大統領に変身する過程が載っていた。「自分もこれをやるしかない」と確信したという。巨匠ディック・スミスとの出会いその雑誌で紹介されていたのはテレビドラマ「南北戦争物語」(1985)で、特殊メイクを担当したのは「エクソシスト」「ゴッドファーザー」「アマデウス」など数々の名作の特殊メイクを手掛けてきたメイクアップ・アーテスト界の巨匠ディック・スミス氏(1922年~2014年)だった。文通さっそくスミス氏の連絡先を調べ、手紙でプロになる方法を尋ねると、「独学が一番」との返事が来た。それ以来、専門誌などを読みながら、自分の顔を実験台にして試行錯誤で特殊メイクに挑んだ。成果物の写真をスミス氏に毎週のように送ると、超多忙にもかかわらず、丁寧に講評を書いて送ってくれたという。18歳でホラー映画のメイクに参加さらにその数か月後、仕事で来日したスミス氏から電話をもらい、東京で面談が実現。 そこで、スミス氏が特殊メイクなどを監修することになっている日本のホラー映画「スウィートホーム」(黒沢清監督/伊丹十三総指揮、1989年公開)に、スタッフの一人として参加することを提案される。翌春の高校卒業と同時に上京し、四畳半のアパートを借りて「スウィートホーム」の特殊メイク班に加わった。黒澤明、伊丹十三並々ならぬ才能と献身ぶりが認められ、黒澤明監督「八月の狂詩曲」(1991年)や、伊丹十三監督「ミンボーの女」(1992年)などに参加。さらに、東京の「代々木アニメーション学院」が新設した特殊メイクのクラスの講師も任された。27歳で念願の渡米1996年、スミス氏の弟子の一人で、「ハリーとヘンダスン一家(1987年)」「エド・ウッド(1994年)」などでオスカーを獲っていたメイク界の第一人者リック・ベイカー氏率いる特殊メイク工房から職をオファーされる。27歳にして長らく夢見ていた渡米を果たした。「メン・イン・ブラック」渡米後すぐにSF超大作「メン・イン・ブラック」に参加。宇宙人のメイクを担当した。その後も卓越した仕事ぶりで頭角を表す。ただ、「グリンチ」で主役ジム・キャリーのメイクを担当したときにパワハラ被害を受け、うつ病状態になるなど、苦労もあったようだ。初ノミネート2006年の「もしも昨日が選べたら」で、主役アダム・サンドラーが突然歳をとったり、体格が変わったりする姿のメイクを担当。アカデミー賞のメイク賞に初めてノミネートされる。2年連続さらに、翌年の「マッド・ファット・ワイフ」では、エディ・マーフィが中国人老人や太った女性などの3役を演じるための特殊メイクを担当。2年連続でオスカーノミネートを果たした。「チャーチル」で初受賞その後、いったん映画界から退いていたが、「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」で復帰。初のオスカーを受賞した。米国民に帰化2019年から米国籍。<受賞スピーチ▼> 他の動画▼<インタビュー▼> |
2018年 | メイク&ヘア賞 |
辻一弘(カズ・ヒロ)
「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」 3度目のノミネートで初の受賞。英チャーチル元首相に扮する主演ゲイリー・オールドマンの特殊メイクを担当。細面のオールドマンを、でっぷりと太ったチャーチルに変身させた。 過酷な労働環境に疑問を持ち、2012年に映画界を引退。特殊メーク技術を生かした胸像を制作するなど、美術彫刻に専念していた。 しかし、俳優ゲイリー・オールドマンから、英チャーチル元首相に扮するための特殊メイクを依頼された。「あなたがメイクをやってくれないなら、この役は引き受けない」と直々に懇願され、復帰を決意した。 オールドマンの主演男優賞の立役者にもなった。 <受賞スピーチ▼> 他の動画▼<インタビュー▼> |
2015年 | 名誉賞 |
宮崎駿(はやお)
ジブリを率いるアニメ監督。「千と千尋の神隠し」で2003年に長編アニメ賞を獲得したほか、「ハウルの動く城」「風立ちぬ」で同賞にノミネートされた。1990年代後半に「もののけ姫」で世界的に有名になる前から、「天空の城ラピュタ」や「となりのトトロ」などの作品が日本で絶大な支持を受けていたとして、長年の功績をたたえた。 ディズニーなどハリウッドにも多大な影響を与えた。 ピクサーなどで「トイストーリー」等の大ヒット作を次々に手掛けジョン・ラセターは「ボクはミヤザキの弟子」と公言していた。 日本人の名誉賞は、1990年の黒澤明監督以来2人目。 <受賞スピーチ> |
2009年 | 外国語映画賞 |
「おくりびと」 (監督:滝田洋二郎) 死者を送る美しい所作にあふれた儀式や尊厳、そしてユーモアにあふれた一作。世界共通の共感を得た。 リストラされて故郷に戻ってきた元チェリストが、ひょんなことから納棺師に転職した。納棺師とは、遺体にきれいな死に化粧をし、死に装束を着せて、ひつぎに納める仕事である。 主演の本木雅弘(当時43歳)は、俳優という枠を越えて、本作の推進役となった。十数年前に訪れたインドで死者を見送る儀式を目にし、生と死が隣り合う死生観を体感した。その後、「納棺」の世界を知り、映画化の構想を温め、実現のため奔走した。 【配信:アマゾン】 <受賞スピーチ▼> |
2009年 | 短編アニメ賞 |
「つみきのいえ」
(監督:加藤久仁生) 約12分のアニメ作品。海面の上昇に伴い、上へ上へ建て増して行った家に住む老人と家族の思い出が描かれている。 鉛筆での手書きの質感にこだわりながら、総勢16人ほどで8カ月間かけて作り上げた。 加藤久仁生(くにお)監督が、「自分の祖父を思い浮かべながら描いた」という。 <受賞スピーチ> |
2003年 | 長編アニメ賞 |
「千と千尋の神隠し」
(監督:宮崎駿) 20世紀から21世紀序盤に日本のアニメ界をリードしたジブリの最高傑作。 人が今まで見たことがないような独特な世界観とキャラクター群像を創り出した。 アニメがCG(コンピューター・グラフィックス)へと移行するなかで、 伝統的な手書き風味のアニメのすごさを世界に示した。 ベルリン国際映画祭でも最高賞の「金熊賞」を獲得した(「ブラディ・サンデー」とのタイ受賞)。 英BBCが2016年に世界の映画評論家の投票で選んだ「21世紀の偉大な映画ランキング」では、 堂々の4位に入った。 また、2017年に米紙ニューヨーク・タイムズが選んだ「現時点での21世紀ベスト映画」でも見事に2位に選ばれた。 <受賞発表(欠席)> |
1999年 | 短編ドキュメンタリー賞 |
「ザ・パーソナルズ 黄昏のロマンス」
伊比(いび)恵子監督 ニューヨーク・マンハッタンのユダヤ系のお年寄りたちの演劇グループに焦点をあてた。高齢者が孤独の中に人生の喜びを見いだそうとする姿をとらえた。 伊比氏は東京都出身。ニューヨーク大大学院の映画学科の卒業作品として本作を製作した。 受賞前年の秋に結婚した同級生のグレッグ・パク氏(映画監督兼アメコミ漫画家、当時30歳)が撮影を担当した。 <受賞スピーチ> |
1993年 | 衣装デザイン賞 |
石岡瑛子(えいこ)
「ドラキュラ」 フランシス・コッポラ監督「ドラキュラ」の衣装を担当。意表を突いた劇的性を提供した。 1938年東京都生まれ。父はグラフィック・デザイナー、母は若い頃小説家志望だったという。戦時中は山形に疎開し、飢えも経験した。 絵が得意だったため、難関の東京芸術大美術学部に合格。卒業後、資生堂に入社し、アートディレクターになる。女優・前田美波里を起用した広告でデビュー。夏用化粧品のキャンペーンだった。ハワイロケで撮影された前田美波里の日焼けしたのびやかな手足と強い表情が、控えめな女性を美徳としてきた当時の日本の広告界に強烈なインパクトを与えた。 1970年に独立。パルコや角川書店などのポスター広告で極上のグラフィック・デザインを見せ、一世を風靡(ふうび)。「女性よ、テレビを消しなさい」と角川文庫で、「西洋は東洋を着こなせるか」とパルコのファッション広告で呼びかけ、日本の広告表現に大革新をもたらした。 1980年に拠点を米国に移した。映画のプロダクション・デザイン、舞台のセット、衣装デザイン、展覧会の企画・プロデュースなど多彩な領域で活躍するようになった。ポール・シュレーダーの映画「Mishima」の美術で1985年カンヌ国際映画祭芸術貢献賞を受賞した。ブロードウェイの演劇「M・バタフライ」でニューヨーク批評家協会賞に輝いた。 コッポラ監督との縁は、1979年の「地獄の黙示録」にさかのぼる。まだ東京にいたころ、映画のポスターのデザインを依頼され、気に入られたという。 渡米後、コッポラのテレビシリーズ「リップ・バン・ウィンクル」で美術監督に起用され、その後、大作「ドラキュラ」で衣装デザイン担当になった。 撮影に入る前の打ち合わせから映画作りに参加して、美術に関する様々なアイデアを求められた。「美術監督が途中で降板したので、まる一年間、コッポラと視覚的スタイルについての議論を重ね、映画をたっぷり勉強することができた。現場では、監督と共に、撮影や照明を点検し、俳優とも語り合う。まさに映画の教室だった」と振り返っていた。 音楽界では、ジャズトランペット奏者のマイルス・デイビスやビョークらと組んだ。マイルス・デイビスのアルバム「TUTU」のジャケットのデザインで1987年グラミー賞を受賞した。 2002年の米ソルトレーク冬季オリンピックで、デサントのレーシングウエアとアウターウエアを手がけた。松岡正剛・編集工学研究所所長によると、スイス選手団のモルフォテックス素材の深紅のマキシコートが厳寒の風に翻った瞬間、アスリートたちのスピリチュアルブルーがその裏側からあらわれたときは、会場からウオーッというどよめきが沸いたという。 2008年の北京五輪の開会式ではく、式全体となる50種、2万着の衣装デザインを担当した。 2012年1月21日、膵臓(すいぞう)がんのため死去。享年73歳。 <受賞スピーチ> |
1990年 | 特別名誉賞 |
黒澤明
※ハリウッドを含む世界の映画史に大きな影響を与えた巨匠。「羅生門」「七人の侍」「用心棒」「影武者」「乱」などの傑作で知られる。 芥川龍之介の小説を映画化した「羅生門」(1950年)は、国内の評価はあまり高くなかったが、イタリア映画関係者らの手で、本人の知らぬ間にベネチア国際映画祭に出品され、グランプリに輝いた。さらに、米国でも、アカデミー賞の外国映画賞も受賞し、一躍“世界のクロサワ”として脚光を浴びた。 以来「生きる」「隠し砦の三悪人」でベルリン国際映画祭銀熊賞、「七人の侍」でベネチア国際映画祭銀獅子賞、「赤ひげ」「どですかでん」でモスクワ映画祭の各賞を受賞。 さらに、旧ソ連に迎えられて監督した、1975年の「デルス・ウザーラ」でアカデミー賞の外国語映画賞に輝いた。1980年の「影武者」でカンヌ国際映画祭の最高賞(パルム・ドール)を獲得。1985年の「乱」でニューヨーク映画批評家協会賞を受賞し、アカデミー賞の監督賞にもノミネートされた。 黒沢監督を師と仰ぐ外国映画人も多く、「影武者」海外版製作はジョージ・ルーカス、フランシス・コッポラ両氏が買って出た。また「七人の侍」をそのまま置き換えて、米国の「荒野の七人」が作られたほか、「隠し砦の三悪人」がジョージ・ルーカス監督に、「蜘蛛巣城」がスチーブン・スピルバーグ監督に大きな影響を与えた。 1977年には、カンヌ国際映画祭35周年記念で「世界の十大監督」の1人に選ばれた。 続きを開く▼1910年(明治43年)、八人兄弟の末っ子として東京で生まれた。旧制中学を卒業後、画家を目指し、18歳で二科展入選。日本プロレタリア美術同盟に入ったが、間もなく運動から離れ、映画説明者だった兄の元に身を寄せた。1936年(昭和11年)、26歳で東宝の前身の映画製作所「P・C・L」に助監督として入社。山本嘉次郎、成瀬巳喜男両監督らの下で脚本を勉強し、1943年「姿三四郎」で監督デビュー。同年「花咲く港」でデビューした木下恵介監督と並び日本映画界のホープと呼ばれた。女子てい身隊を描いた2作目「一番美しく」に出演した女優の矢口陽子さんと結婚した。 戦後は「わが青春に悔なし」「素晴らしき日曜日」「酔いどれ天使」と、矢継ぎ早に話題作を発表。1948年の「酔いどれ天使」では三船敏郎さんと出会い、以来、黒沢作品に欠かせない存在になった。 <受賞スピーチ> |
1988年 | 作曲賞 |
坂本龍一 「ラストエンペラー」サントラ 西洋と中国の雰囲気が入りまじり、近代と現代の時代色を併せ持った音楽として称賛された。 作曲は、坂本龍一、トーキング・ヘッズのデビッド・バーン、中国人作曲家・蘇聡の3人が担当した。テーマ曲などは坂本龍一がメインで手掛けており、坂本が受賞者名簿の筆頭に位置づけられた。 映画「ラストエンペラー」は中国・清朝最後の皇帝で、のちに旧満州国皇帝にもなった溥儀(ふぎ)の生涯を描いた。英国、イタリア、中国の合作。アカデミー賞では作品賞も受賞した。 坂本龍一はクラシック畑の出身だが、ロック、ジャズ、現代音楽と関心の領域は広く、1982年には自ら主演した大島渚監督の日英合作映画「戦場のメリークリスマス」の音楽も担当した。 1978年、キーボード奏者として「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)の結成に参加、シンセサイザーを駆使した電子音楽「テクノ・ポップ」が注目を集めた。 <共同受賞者> デビッド・バーン(英国バンド「トーキング・ヘッズ」) 蘇聡(スー・ツォン) ※筆頭受賞者は坂本龍一 <受賞スピーチ> |
1986年 | 衣裳デザイン賞 |
ワダエミ(和田恵美子) 「乱」 黒澤明監督「乱」は監督賞、衣装デザイン賞、撮影賞、美術賞の計4部門でノミネートされ、 このうちワダエミ氏が担当した衣装デザイン賞で受賞を果たした。 ワダエミさんは1400着もの衣装をすべてをデザイン・制作した。 能衣装をベースにした豪華な衣装は、映画の全編を通じて映像美を引き立て、世界で絶賛された。 主要人物の衣装には天然の絹と麻を使い、糸を染め上げるところから手作りした。 主人公の息子3人が着ていた色とりどりの陣羽織などが有名。 黄、赤、青と、3人の対比を際だたせる色遣い。 1937年3月、京都市生まれ。京都市立美術大学(現・京都芸大)西洋画科。 学生時代に請われて舞台装置や衣装を手がけるようになった。 20歳のとき当時NHKのディレクターだった演出家、和田勉さんと結婚。 衣装デザイナーとして演劇、映画、オペラなどで活躍。 賞と名のつくものは、オスカーが初めてでだったという。 初めて映画のコスチュームを手掛けたのは、1972年の米国映画「マルコ」。 その後、日本の映画会社からもいくつかオファーはあったが、『主役の衣装だけ』みたいな話ばかりで、 「エキストラにいたるまですべての衣装を作りたい」と考えるワダエミさんの考えにあわず、 具体化しなかった。 黒沢監督がシェークスピアの「リア王」を翻案した新作「乱」を準備していると聞き、ワダさんは強い興味を抱いた。台本を入手し、数百冊の資料を読み込み、アイデアを練って監督に提案したところ、映画衣装の経験が浅いにもかかわらず抜擢された。 すべて糸から染め、それを織り上げて生地を作り、ワダさんのデザインに基づいて生地を裁断し、縫い上げる。まさに手づくりの衣装だった。 衣装発注後、資金難で製作が数カ月間ストップ。一時は自宅を売る覚悟もした。編集段階のフィルムを見ながら黒沢監督が言った「すてきだね」という一言で、苦労が報われたと感じたという。 授賞式では、驚きのあまり気が動転して、準備していた英語のスピーチを書いた紙を、座席に置いたままステージに上がった。授与者の名女優オードリー・ヘプバーンからオスカー像を渡されて、とっさに日本語でスピーチ。「(オスカー像には)私の衣装は必要ないようです」などと通訳を通じて語ると、会場が沸いた。 <受賞スピーチ> |
1976年 | 外国語映画賞 |
「デルス・ウザーラ」 (監督:黒澤明) ※ソ連(現ロシア)・日本合作 黒澤監督の初の海外作品。 20世紀初頭のシベリアを舞台に、探検家と、そのガイド役となった原住民猟師の絆を描く。 この作品をつくる前、黒澤監督は危機的な状況にあった。 ハリウッド映画「トラ・トラ・トラ!」の制作していた1968年、米映画会社から解任される。再起をかけて撮った「どですかでん」(1970年公開)は酷評され、興行成績もふるわなかった。 1971年の暮れ、東京都内の自宅浴室で自殺未遂事件を起した。自らの体にカミソリを突きつけた。21カ所の傷跡のうち、1つは深く肉を裂き、頸動脈ぎりぎりの所まで達していたという。 「世界の巨匠」と認められながら、映画を撮れない状況に陥った黒澤に手を差し伸べたのは、ソ連(現:ロシア)だった。仲介役となったのは、日本の独立系の洋画配給会社「ヘラルド映画」の古川勝巳社長(当時)。ヘラルドはソ連の映画を多く輸入しており、ソ連の映画界から信頼を得ていた。古川氏がソ連側に働きかけ、日ソ共同プロジェクトとして立ち上がったのだった。 黒澤明が題材として選んだのは、ロシア人探検家の記録本「デルス・ウザーラ」。厳しい自然と、狩猟民族の知恵や心を感動的に描いた名著で、黒澤は戦前の助監督時代に読んでいた。 ロケ地は零下40度の極東シベリア。過酷な撮影だった。黒澤監督は昼間は怒声をあげ、夜は部屋で泣ていたという。 苦難の末に完成した本作のオスカー獲得は、黒澤にとって劇的なカムバックとなった。どん底からはい上がった巨匠は1980年代に入ると、「影武者」「乱」という大作をものにし、海外の映画賞レースで再び大暴れした。 <受賞スピーチ> |
1958年 | 助演女優賞 |
ナンシー梅木 (ミヨシ・ウメキ) 「サヨナラ」 日本で唯一、「主要部門」での受賞を果たした。 北海道出身の歌手兼女優。渡米3年目で出演した本作でハリウッド映画デビュー。当時28歳。米兵と恋に落ちる日本人女性を演じた。授賞式に着物で出席し、大かっさいを浴びた。アジア人の俳優としても史上初めてのオスカー受賞という快挙だった。本名:梅木美代志(みよし)。 この後も、「嬉し泣き」(1961年)や「戦略泥棒作戦」(1962年)などの米映画に出演。1958年開演のブロードウェイ・ミュージカル「フラワー・ドラム・ソング」で演劇界の最高峰トニー賞でミュージカル女優賞にノミネートされた。テレビドラマ「エディのすてきなパパ」(1969~1972年)にお手伝い役としてレギュラー出演もこなした後、1972年に芸能活動から引退した。 1929年(昭和4年)5月、北海道の小樽にて、鉄工所の9人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。高校在学中、兄が進駐軍の通訳をしていたことから、札幌の米軍キャンプなどで歌うようになり人気者に。「ナンシー」の由来は、米雑誌の漫画の主人公に似ていたためという。 1948年に上京。角田孝&シックスのボーカルとしてデビューした。少し鼻にかかったハスキーボイスで、人気のジャズ歌手になった。 1955年に渡米した。1956年に全国放送のテレビ番組で歌をうたい、注目される。翌年、「サヨナラ」でハリウッドデビューを果たし、いきなりオスカーに輝いた。 私生活ではテレビディレクターのフレドリック・オピーと結婚。後に離婚。1968年にドキュメンタリー監督のランドール・フッドと再婚し、1976年に死別。晩年は息子夫婦がいるミズーリ州で暮らしていた。 2007年8月、ミズーリ州リッキングの老人ホームで他界した。死因はがん。享年78歳。 <受賞スピーチ▼> 動画集を開く▼<歌唱シーン▼> <歌声▼> <歌声▼> |
1956年 | 名誉賞(現・国際映画賞) |
「宮本武蔵」 (監督:稲垣浩) 戦前からたびたび映画化されていた吉川英治の剣豪小説に、稲垣浩監督が挑んだ。 主演は三船敏郎。 関ヶ原の合戦に参加した宮本武蔵。戦いに敗れ、無類(ぶらい)の徒になる。 帰郷するや乱暴の限りを尽くす。 やがて捕らえられて処刑を待つ身となる。 だが、僧侶に救われ、人の道に目覚め、剣の修行をすべく放浪の旅に出る。 配信(アマゾン)→ |
1955年 | 名誉賞(現・国際映画賞) |
「地獄門」 (監督:衣笠貞之助) 衣装デザイン賞と併せて2冠。日本映画で史上唯一の2冠。 平清盛が権勢をふるう時代、反清盛派が都で反乱を起こす。 上皇の妹を救うため身代わりを乗せた牛車が都を後にする。 だが警護の任について盛遠は、身代わりの女性(京マチ子)に恋をし、ストーカーと化す。女性の夫との間に確執が生じる。 時代絵幕。日本初のイーストマン・カラー作品。色彩美が称賛された。 カンヌ国際映画祭で最高賞(現在のパルム・ドール)を受賞した。 配信(アマゾン)→ |
衣裳デザイン賞(カラー) |
和田三造 「地獄門」 絢爛(けんらん)な衣装が高い評価を得た。大映映画。 和田三造(さんぞう)は日本美術史に名を残した洋画家。 1883年、兵庫県生まれ。東京美術学校(現東京芸大)卒。黒田清輝に師事し、1907年(明治40年)、24歳で第1回文展に出した「南風」で最高賞を受賞。明治浪漫主義の時代を記念する絵として語り継がれた。翌年も最高賞を連続受賞し、華々しく画壇にデビューした。 染織、版画、挿絵など幅広い分野で活躍した。総合芸術を目指し、生活の中に工芸と絵画を融合させた。色彩研究でも実績を残した。 |
|
1952年 | 名誉賞(現・国際映画賞) |
「羅生門」 (監督:黒澤明) 日本映画界にとってのオスカー第一号となった。 アカデミー賞に先立つベネチア国際映画祭では、最高賞(金獅子賞)を受賞。 日本映画の芸術性と「クロサワ」の名を、世界にとどろかせるきっかけになった。 国際的なスター俳優となる三船敏郎にとっても、海外デビューとなった。 一つの事件を複数の人間の視点で回想する。 盗賊、侍の霊、妻の三人三様の言い分は食い違う。 真実を観客に向けて問う。 後に世界の映画製作者や研究者の間で「羅生門形式」と呼ばれるようになるスタイルを打ち出した。 芥川龍之介の短編「藪(やぶ)の中」を原作とし、脚本は橋本忍と黒澤が手掛けた。 映像美も世界に衝撃を与えた。 当時、カメラを直接太陽に向けるとフィルムが焼けると言われていたが、そのタブーに挑戦した作品としても有名だ。 三船敏郎、京マチ子の熱演も見事。撮影の名手・宮川一夫も絶賛された。 配信(アマゾン)→ |
アカデミー賞を最も多く受賞した日本人は、巨匠・黒澤明監督(計3回)です。 国際映画部門で2度受賞し、さらに名誉賞を授与されました。 最多ノミネートも、黒澤明です。
年 | 部門 | 作品 |
---|---|---|
1990 | 名誉賞 | 長年の功績に対して |
1976 |
国際映画賞
(当時:名誉賞) |
「デルス・ウザーラ」 |
1952 |
国際映画賞
(当時:名誉賞) |
「羅生門」 |
黒澤明は「生きる」「七人の侍」など世界映画史に残る名作や 「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」などの大型娯楽作品を精力的に発表。「世界のクロサワ」の名を高めた。 作品の持つヒューマニズムに裏打ちされた普遍性、娯楽性が支持された。 生涯にわたり、常に新しい映画的表現に挑戦した。 米国のフランシス・コッポラやジョージ・ルーカスから張芸謀(チヤン・イーモウ)に至るまで、洋の東西を問わず世界中の映画人から尊敬と崇拝を集めた。海外の映画にも大きな影響を与えた。「七人の侍」は米の西部劇「荒野の七人」に、「用心棒」はマカロニウエスタン「荒野の用心棒」に、それぞれ翻案された。 SF映画「スター・ウォーズ」の活劇場面は黒澤作品の立ち回りがヒントになったと言われる。
身長181センチの堂々たる体格。 周囲を震え上がらせるような迫力ある怒鳴り声。 「黒澤天皇」、「完全主義者」などと呼ばれた。
1910年(明治43年)、東京で4男4女の末っ子として生まれた。
旧制中学を卒業後、画家を志す。 後に東宝と合併する「PCL映画製作所」に入社。 助監督として修業を積んだ後、自らプロデューサーに企画を持ち込んだ「姿三四郎」で1918年に監督デビューを果たす。 1936年にピー・シー・エル映画製作所(東宝の前身)に入社した。
山本嘉次郎監督の助監督を経て、1943年に「姿三四郎」で監督デビュー。戦争中。33歳のときのことだった。ヒットした。国策映画ばかりの中にあって、柔道一筋に生きる若き三四郎の青春が異彩を放った。痛快な娯楽性が高い評価を受けた。黒澤監督は出演する俳優に柔道を特訓させた。妥協を許さない黒澤作品はここから始まった。
新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞。この年、黒澤監督と同時受賞したもう一人は、2歳年下で、後に終生のライバルとしてともに邦画界を背負って立つ木下恵介監督だった。2人は日本映画界のホープと目された。
1944年公開の2作目は戦争末期、軍需工場で働く女子挺身隊員たちを描いた「一番美しく」。主演の矢口陽子とは翌1945年に結婚した。戦時中だったため、結婚式の最中に空襲警報が鳴ったという。
満20歳になった1930年、徴兵検査を受けた。 徴兵司令官は、一時、陸軍の体育教官をしていた父親の教え子だった。 「君は虚弱なようだ。姿勢も悪い」 といわれ、最後に、 「君は、兵役に関係ありません」 といい渡された。敗戦まで徴兵されたことはない。
戦争体験の忌まわしさは、なによりも映画監督として、表現の自由を内務省の検閲官に奪われたことだった。 デビュー作「姿三四郎」でさえ、検閲官は「米英的」と烙印を押したほどである。 敗戦の年の暮れ、「喋る」という1幕の戯曲を書いた。 言論の自由を回復し、胸の奥で噛み殺していた思いの丈を、一斉に喋り始めた日本人の姿を表したものだった。
戦後第1作「わが青春に悔なし」は、京都大学の滝川教授追放事件をモデルに、 思想弾圧に抵抗する人々を黒澤監督らしい、引き込むようなタッチで描いた。 原節子が演じた幸枝のたくましさが共感を呼んだ。
戦後の1948年、「酔いどれ天使」で三船敏郎を抜擢した。以後、三船は黄金期の黒澤映画に欠かせない俳優となった。 同じく黒澤映画の顏となる志村喬も起用した。 中年医師(志村)と若いやくざ(三船)の交流を描き、戦後日本の闇から人の生き様を問うた。戦争直後の世相を見事に描写。映画誌「キネマ旬報」年間ベストテンの1位にも選ばれ、日本を代表する映画監督としての地位を固めた。
続いて三船を起用した「静かなる決闘」は、前線の野戦病院でゴム手袋をはずして緊急手術した外科医が梅毒に感染するところから始まる苦悩のドラマ。
第11作。芥川龍之介の「薮の中」が原作。 1950年公開。三船敏郎、京マチ子、志村喬、森雅之らが出演。 脚本は橋本忍と黒澤明。 盗賊、旅の侍、その妻の三人三様の言い分から、 真実を観客に向けて問う。 新形式のドラマとなった。 その映像美とともに、同じ出来事を複数の視点で回想する描写は世界の映画監督に影響を与えた。 当時、カメラを直接太陽に向けるとフィルムが焼けると言われていたが、そのタブーに挑戦した作品としても有名だ。
ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した。さらにオスカー国際映画賞(当時は名誉賞)を日本映画で初めて受けた。 「世界のクロサワ」と呼ばれるきっかけとなった。また、日本映画の芸術性を初めて世界に知らせる記念碑的作品となった。三船敏郎の名も世界に認められるようになった。
目が覚めるような映像とそれまでにない新鮮で感覚的な映画だった。黒澤作品のスクリプター(記録係)を長年務めた野上照代さんによれば、「黒澤さんは光と影を狙い、モノクロの美しさを極めようとした」という。鏡を多用し、日光を屈折させた。撮影現場では「日が当たるところに動け」と、怒号を飛ばしたという。
羅生門は公開当時、日本国内での評価が芳しくなく、興行収入も低迷していた。配給会社の大映・永田雅一社長はワンマンで有名な人物で、作品を見て「わけがわからん」と酷評。製作を推進したプロデューサーらを左遷してしまった。
羅生門の後、黒澤は原節子、森雅之、三船敏郎でドストエフスキーの「白痴」の映画化に挑んだ。 ドストエフスキーの原作をもとに舞台を札幌に移して撮影された。「暗くて長い」と松竹首脳部には不評で、大幅カットを余儀なくされた。出来上がった作品はさんざんな悪評だった。 一時的に不遇になったが、このあとに羅生門が海外で評価され、再び仕事が次々と舞い込むようになる。
胃がんに侵された市役所の役人の物語。 映画史上に残る大傑作。 ベルリン映画祭銀熊賞を受賞した。
日本映画に類を見ない大型アクション時代劇。戦国時代、野盗となった野武士たちから村を守るため、貧しい農民たちが雇った7人の侍たちの闘いを描く。 従来の時代劇が形だけのチャンバラに終わっているのに飽き足らなかった黒澤監督が、可能な限りリアルに戦国の世を描こうとした。登場する七人の役どころが細かに描き分けられており、人間ドラマとしても秀逸。 世界の映画界を驚嘆させた。本作を原作とする西部劇「荒野の七人」がアメリカで6年後に製作され、大ヒット。西部劇の歴史に残る傑作と評されている。 野武士が馬で村に乱入してくる雨中の合戦シーンでは、初めてカメラ3台を使って同時に撮影、編集した。以後、このスタイルは黒澤作品では定着した。 上映時間3時間27分の大作。
娯楽的なおもしろさという点では、ずばぬけている。 「用心棒」では、日本映画で初めて人を切る音を入れた。「椿三十郎」では決闘シーンで血しぶきを飛ばした。
エド・マクベインの小説を翻案した「天国と地獄」もスリリングなおもしろさを堪能できた。列車を使っての身代金受け渡しは、あっといわせるアイデアだった。
黒澤監督らしいヒューマンな一面が色濃く出た作品。三船敏郎は貫録十分だった。
監督が自ら「集大成」と自負していた。
江戸時代、
青年(加山)が、
所長の赤ひげ(三船)のもとで
働くうちに、
真の医療に目覚めていく人情ドラマ。原作:山本周五郎
1966年、黒澤は日本の映画界に見切りをつけて、活躍の場を海外に求めていく。米国のプロダクションと組んで、「暴走機関車」の制作に取りかかる。だが、条件面などが折り合わず、企画は中止に追い込まれる。黒澤にとって、これが躓(つまず)きの始まりだった。
日本軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃から太平洋戦争勃発へ至る日米の確執を、 双方の立場から、 その全貌を描く。 大型戦争映画 。 制作中に、黒澤監督は解任された。 撮影が思うように進まず、焦っていた黒澤は、怒鳴り散らし、スタッフを殴り、ついには病気で倒れた。現場に復帰したが、最悪の結末を迎える。1969年、ハリウッドの20世紀フォックスは、解任を通告した。
黒澤監督による初のカラー作品。
「トラ・トラ・トラ!」での解任から、再起をかけて撮った。
チェコのカルロビバリ映画祭に出品
電車のまねごとをして街中を練り歩く主人公
人々を触れ合いを、ユーモラスかつ幻想的に描いた。
原作は、山本周五郎の小説。
下町のごみ捨て場を活用したオブジェのような“街”が不思議な効果を上げた。
本作は興行的に失敗し、黒澤は大きな借金を抱えることになった。
本作は海外での評価が高かった。アカデミー賞では外国語映画賞にノミネートされた。
1971年12月22日。早朝の出来事だった。黒澤は、厳冬の夜、自らの体にカミソリを突きつけた。21カ所の傷跡のうち、1つは深く肉を裂き、頸動脈ぎりぎりの所まで達していた。家政婦が発見して病院に運ばれ、一命を取りとめる。 黒澤明、自殺未遂というニュースが流れると、国内外の映画関係者に衝撃が走った。
黒澤監督の初の海外作品。ソ連映画として製作さた。日本人スタッフなどの費用は、ヘラルドグループが出資した。
ヘラルド映画の古川勝巳社長(当時)が
「世界の巨匠なのに、映画が作れないのは残念だ。ソ連で作らせようじゃないか」と言って、段取りに動いた。
ヘラルドは、ソ連の映画を多く輸入していた。
ハリウッド映画には手が出なかった。
ソ連の映画界から信頼を得ていた。
第48回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した。黒澤は見事にカムバックを果たした。
20世紀初頭のシベリアが舞台。探検家と、そのガイド役となった原住民の猟師の絆を描く。
珠玉(しゅぎょく)のドラマ。壮大な文明批評ドラマでもある。
原作は、ロシア人探検家の記録「デルス・ウザーラ」。厳しい自然と、狩猟民族の知恵や心を感動的に描いた名著。
黒澤明がこれを初めて読んだのは戦前の助監督時代のときだった。
デルス・ウザーラはシベリアの密林に実在した伝説の猟師。彼は過酷な地で生き抜く洞察力に加え、見知らぬ人をも思いやる美しい心を持っていた。
主演の探検家アルセーニエフ役はユーリー・サローミン。ロシア演劇界屈指の二枚目である。
猟師デルス役はマキシム・ムンズク。この映画で一躍有名になった。
9カ月に及ぶ極東ロケに参加した協力監督の野上照代さんによると、「黒澤さんと働いたのは通算50年以上になるけど、デルス・ウザーラほど過酷な現場はなかった」という。
極東ロケは1973年12月に始まった。思うように撮れないと監督は荒れた。黒澤監督は昼間は怒声をあげ、夜は部屋で泣いた。野上さんが運んだおかゆを皿ごとぶちまけたこともあったという。酒量が増え、体重は減った。
スタッフはソ連側70人、日本側は監督以下わずか6人。冬は芯まで凍った。零下40度の美を表現するため、酷寒の林にホースで放水してツララを並べた。夏は夏で30度を超え、蚊やダニの大群に悩まされた。
ソ連の映画会社は融通が利かず、編集前の生フィルムを現像して無断でパンチ穴を開けてしまう。政府情報機関KGBとおぼしき男がずっと同行し、ロケ地の変更をしぶった。
当時は冷戦のまっただ中。
ソ連側の面々は胸中、米映画界を見返してやろうと対抗心を燃やしていたそうだ。
ソ連側のスタッフは、遠景に映った1本の枝が季節感を損ねるとクロサワに言われ、わざわざ切りに行かされたという。
資金難に陥ったが、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスの仲介によって、アメリカから資金が入ってきて完成した。
戦国時代の毛利三兄弟の物語に翻案した。 豪華絢爛な 戦国絵巻。 大スケール 荘厳な悲劇に人間の愚かさを映す。 アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。 そのスケールの大きさ、絢爛(けんらん)たる様式美は、黒澤監督でなければ到底なし得なかった偉業である。
総製作費は25億円。3分の1をフランス側、残りを日本で出すことになった。
一族が殺し合うという悲劇的な内容と高額な製作費のため、日本では出資する会社が見つからなかった。時間切れになり、ヘラルド映画の古川氏の個人保証で、原正人氏が引きうるヘラルド・エースが全額負担することにした。ヘラルド・エースは当時、「戦場のメリークリスマス」「瀬戸内少年野球団」とヒット作が続いて勢いがあった。
アメリカから馬を50頭輸入して調教。騎馬軍団が激突する合戦場面では、馬300頭、エキストラ1000人を集めた。富士山中腹には実物大の城を3億円かけて建築し、落城、炎上シーンも撮った。1984年6月から撮影に入ったものの、撮り終えたのは翌年2月。製作費は1億円オーバーしてしまった。分割で入るフランス出資分も、円高のため約1億円の為替差損が出た。
結果は配給収入16億円余り。諸経費を引いて4億5000万円もの赤字をヘラルド・エースだけで負う始末になった。
著作権をヘラルド映画に譲渡し、残りの借金返済に4年ほどかかったという。
1995(平成七)年に腰の骨を折り、その後リハビリを続けていた。死亡する2週間前から体調を崩し、女の和子さんに見とられながら眠るように息を引き取ったという。
アメリカのアカデミー賞を受賞した日本映画・日本作品(邦画)や日本人の歴代の受賞者とノミネートの一覧です。
部門 | 受賞 | ノミネート |
---|---|---|
作品賞 | なし | 「ドライブ・マイ・カー」 |
監督賞 | なし |
・濱口竜介
・黒澤明 ・勅使河原宏 |
主演男優賞 | なし | なし |
主演女優賞 | なし | なし |
助演男優賞 | なし | ・渡辺謙
・パット・モリタ ・マコ岩松 ・早川雪洲 |
助演女優賞 |
ナンシー梅木
「サヨナラ」 (1958年) |
菊地凛子 |
脚本賞 | なし | なし |
脚色賞 | なし | 濱口竜介&大江崇允 |
長編アニメ賞 |
「君たちはどう生きるか」
宮崎駿監督 (2024年) 「千と千尋の神隠し」 宮崎駿監督 (2003年) |
「未来のミライ」
「レッドタートル ある島の物語」 「思い出のマーニー」 「かぐや姫の物語」 「風立ちぬ」 「ハウルの動く城」 |
短編アニメ賞 | 「つみきのいえ」
(2009年) |
「九十九」ほか |
国際映画賞 |
「ドライブ・マイ・カー」
濱口竜介監督 (2022年) 「おくりびと」 滝田洋二郎監督 (2009年) 「デルス・ウザーラ」 黒澤明監督 (1976年) 「宮本武蔵」 稲垣浩監督 (1956年) 「地獄門」 衣笠貞之助監督 (1955年) 「羅生門」 黒澤明監督 (1976年) |
「パーフェクト・デイズ」
「万引き家族」 「デルス・ウザーラ」 「たそがれ清兵衛」 「泥の河」 「影武者」 「サンダカン八番娼館・望郷」 「どですかでん」 「智恵子抄」 「怪談」 「砂の女」 「古都」 「永遠の人」 「ビルマの竪琴」 |
衣装デザイン賞 | 石岡瑛子
「ドラキュラ」 (1993年) ワダエミ 「乱」 (1986年) 和田三造 「地獄門」 (1955年) |
・石岡瑛子
・村木与四郎 ・江崎孝坪 ・甲斐庄楠音 |
作曲賞 | 坂本龍一
「ラストエンペラー」 (1988年) |
黛敏郎 |
視覚効果賞 |
「ゴジラ-1.0」
山崎貴監督 (2024年) |
|
撮影賞 | なし | 「乱」 「トラ トラ トラ!」 |
編集賞 | なし | 井上親弥 |
美術賞 | なし | 村木与四郎ほか |
メイク&ヘア賞 | 辻一弘
(2020、2018年) |
辻一弘 (2024、2008,2007年) |
短編ドキュメンタリー賞 | 「ザ・パーソナルズ 黄昏のロマンス」
(1999年) |
なし |
作品賞、 監督賞、 脚色賞、 助演男優賞、 助演女優賞、 長編アニメ賞、 短編アニメ賞、 衣装デザイン賞、 国際映画賞、 作曲賞、 視覚効果賞、 撮影賞、 編集賞、 美術賞、 メイク&ヘア賞、 短編ドキュ賞
年 | 結果 | 作品 | 監督 |
---|---|---|---|
2022 | ノミネート | 「ドライブ・マイ・カー」 | 濱口竜介 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
2022 | ノミネート | 濱口竜介 | 「ドライブ・マイ・カー」 |
1986 | ノミネート | 黒澤明 |
「乱」
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1966 | ノミネート | 勅使河原宏 | 「砂の女」 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
2022 | ノミネート | 濱口竜介&大江崇允 | 「ドライブ・マイ・カー」 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
2004 | ノミネート | 渡辺謙 | 「ラストサムライ」 |
1985 | ノミネート | パット・モリタ(日系二世) | 「ベスト・キッド」 |
1967 | ノミネート | マコ岩松 | 「砲艦サンパブロ」 |
1958 | ノミネート | 早川雪洲(せっしゅう) | 「戦場にかける橋」 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
2007 | ノミネート | 菊地凛子(りんこ) | 「バベル」 |
1958 | 受賞 | ナンシー梅木 | 「サヨナラ」 |
年 | 結果 | 作品 | 監督 |
---|---|---|---|
2024 | 受賞 | 「君たちはどう生きるか」 | 宮崎駿 |
2019 | ノミネート | 「未来のミライ」 | 細田守 |
2017 | ノミネート | 「レッドタートル ある島の物語」 | マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット |
2016 | ノミネート | 「思い出のマーニー」 | 米林宏昌 |
2015 | ノミネート | 「かぐや姫の物語」 | 高畑勲(いさお) |
2014 | ノミネート | 「風立ちぬ」 | 宮崎駿 |
2006 | ノミネート | 「ハウルの動く城」 | 宮崎駿 |
2003 | 受賞 | 「千と千尋の神隠し」 | 宮崎駿 |
年 | 結果 | 作品 | 監督 |
---|---|---|---|
2018 | ノミネート | 「ネガティブ・スペース」 | 桑畑かほる、マックス・ポーター |
2015 | ノミネート | 「ダム・キーパー」 | 堤大介、ロバート・コンドウ |
2014 | ノミネート | 「九十九」 | 森田修平 |
2009 | 受賞 | 「つみきのいえ」 | 加藤久仁生(くにお) |
2003 | ノミネート | 「頭山」 | 山村浩二 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
2013 | ノミネート | 石岡瑛子 | 「白雪姫と鏡の女王」 |
1993 | 受賞 | 石岡瑛子 | 「ドラキュラ」 |
1986 | 受賞 | ワダエミ(和田恵美子) | 「乱」 |
1962 | ノミネート |
村木与四郎
【白黒部門】 |
「用心棒」 |
1957 | ノミネート | 江崎孝坪(こうへい)
【白黒部門】 |
「七人の侍」 |
1956 | ノミネート |
甲斐庄楠音
(かいのしょう・ただおと) 【白黒部門】 |
「雨月物語」 |
1955 | 受賞 | 和田三造 | 「地獄門」 |
年 | 結果 | 作品 | 監督 |
---|---|---|---|
2024 | ノミネート | 「パーフェクト・デイズ」 | ビム・ベンダース |
2022 | 受賞 |
「ドライブ・マイ・カー」
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濱口竜介 |
2019 | ノミネート |
「万引き家族」
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是枝裕和 |
2009 | 受賞 |
「おくりびと」
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滝田洋二郎 |
2004 | ノミネート |
「たそがれ清兵衛」
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山田洋次 |
1982 | ノミネート |
「泥の河」
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小栗康平 |
1981 | ノミネート |
「影武者」
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黒澤明 |
1976 | 受賞 | 「デルス・ウザーラ」 | 黒澤明 |
ノミネート |
「サンダカン八番娼館・望郷」
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黒澤明 | |
1972 | ノミネート |
「どですかでん」
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黒澤明 |
1968 | ノミネート | 「智恵子抄」 | 中村登 |
1966 | ノミネート |
「怪談」
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小林正樹 |
1965 | ノミネート |
「砂の女」
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勅使河原宏 |
1964 | ノミネート |
「古都」
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中村登 |
1962 | ノミネート |
「永遠の人」
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木下恵介 |
1958 | ノミネート |
「ビルマの竪琴」
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市川崑 |
1956 | 受賞 |
「宮本武蔵」
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稲垣浩 |
1955 | 受賞 |
「地獄門」
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衣笠貞之助 |
1952 | 受賞 |
「羅生門」
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黒澤明 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
1988 | 受賞 | 坂本龍一 | 「ラストエンペラー」 |
1967 | ノミネート | 黛敏郎
(まゆずみ・としろう) |
「天地創造」 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
2024 | 受賞 | 山崎貴
渋谷紀世子 高橋正紀 野島達司 |
「ゴジラ-1.0(マイナスワン)」 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
1986 | ノミネート | 斎藤孝雄
上田正治 中井朝一 |
「乱」 |
1971 | ノミネート | 佐藤昌道 姫田真左久(しんさく) 古谷伸(おさむ) |
「トラ トラ トラ!」 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
1971 | ノミネート | 井上親弥(ちかや) | 「トラ トラ トラ!」 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
1986 | ノミネート | 村木与四郎(よしろう)
川島泰造 |
「乱」 |
1986 | ノミネート | 村木与四郎(よしろう)
川島泰造 |
「乱」 |
1981 | ノミネート | 村木与四郎 | 「影武者」 |
1971 | ノミネート | 村木与四郎
川島泰造 |
「トラ トラ トラ!」 |
1957 | ノミネート(白黒) | 松山崇 | 「七人の侍」 |
1957 | ノミネート(カラー) | アルバート野崎 | 「十戒」 |
1953 | ノミネート(白黒) | 松山崇
松本春造 |
「羅生門」 |
1937 | ノミネート | エディー今津 | 「巨星ジークフェルド」 |
年 | 結果 | 対象者 | 作品 |
---|---|---|---|
2024 | ノミネート | 辻一弘 (カズ・ヒロ) |
「マエストロ:その音楽と愛と」 |
2020 | 受賞 | 辻一弘 (カズ・ヒロ) |
「スキャンダル」 |
2018 | 受賞 | 辻一弘 (カズ・ヒロ) |
「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」 |
2008 | ノミネート | 辻一弘 (カズ・ヒロ) |
「マッド・ファット・ワイフ」 |
2007 | ノミネート | 辻一弘 (カズ・ヒロ) |
「もしも昨日が選べたら」 |
年 | 結果 | 作品 | 監督 |
---|---|---|---|
1999 | 受賞 | 「ザ・パーソナルズ 黄昏のロマンス」 | 伊比(いび)恵子 |