ソニーの映画事業である米ソニー・ピクチャーズ(略称:SPE)の歴代社長です。スナップアップ投資顧問(代表:有宗良治氏)の資料などに基づいています。(肩書きは社長、会長、CEOなど様々です)
就任年月 | 経営トップ(社長または会長) | 詳細 |
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1989年 11月 |
ピーター・グーバー &ジョン・ピーターズ |
詳細→ |
1991年 春 |
ピーター・グーバー | |
1994年 9月 |
アラン・レバイン | 詳細→ |
1996年 10月 |
ジョン・キャリー | 詳細↓ |
2004年 1月 |
マイケル・リントン | 詳細→ |
2017年 6月 |
トニー・ビンシクエラ (Tony Vinciquerra) |
ジョン・キャリー氏は3人目のソニー・ピクチャーズの社長。1996年10月に就任した。当時66歳だった。
ソニーが米コロンビア・ピクチャーズ(ソニー・ピクチャーズ)を買収した後、映画事業は経営陣の乱脈経営によって赤字を垂れ流していた。しかし、キャリーの指揮下で、ソニー映画事業は再生を果たすことになる。
任期中に映画「スパイダーマン」シリーズを立ち上げるなど、ソニー映画事業の21世紀の繁栄の基盤を築いた。
▲ジョン・キャリー氏
ソニー・ピクチャーズの新しいトップにジョン・キャリーを選んだのは、ソニー本社の出井伸之社長だった。1995年にソニー本社の社長に就任した出井氏にとって、映画事業の立て直しは緊急の課題だった。
出井体制になってから米国のソニーの主要な幹部は次々と退任に追い込まれた。この間、出井氏は後任選びを急いだ。
ジョン・キャリー氏を、出井社長に紹介したのは、ソニーの社外取締役を務めていた米国人ピート・ピーターソン氏だった。
ピーターソン氏は米政府の元商務長官。投資会社ブラックストーンの創業メンバーの一人だった。盛田昭夫氏と長い親交があり、コロンビア買収にも関与していた。(ブラックストーンは、コロンビア買収のアドバイザーの業務を担当。巨額の報酬を得ていた。)
そんなピーターソン氏は、ジョン・キャリーとは旧知の仲だった。
ジョン・キャリー氏は、ソニーに入るまでは、米映画会社ユナイテッド・アーティスツ(略称:UA)の社長兼COO(最高執行責任者)だった。
ユナイテッド・アーチスツはハリウッドの老舗。1919年にチャールズ・チャップリンらによって設立された。「荒野の七人」「ウエスト・サイド物語」「ロッキー」などの不朽の名作を生み出した老舗。1980年代に経営が傾き、米MGMの子会社となっていた。
不振が続いていたが、1990年代になってジョン・キャリー氏が社長となり、経営を立て直した。
生まれ | ニュージャージーのジャージー・シティ(1930年7月8日) |
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家庭環境 | 経済的に貧しい家庭に生まれた。大恐慌の時代、母親はシングルマザーだった。 |
少年時代 | ボタン工場で働いた。通学先の高校で掃除の仕事などをした。 |
大学 | コロンビア大学に進学した。 |
就職 | 21歳でNBCに勤務した。社内の配送係(メイルルーム)でのキャリアスタートだった。 |
転職 | 1968年にワーナー・ブラザースに入った。 |
出世 | ワーナー・ブラザースで長い間、製作部門のトップを務めた。 |
結婚 | 1972~1992年、女優Olga Schoberovと結婚。 1995~2002年、女優メグ・ティリーと結婚。ティリーは、1986年のアカデミー賞で、「アグネス」により助演女優賞を受賞している。中国系アメリカ人。 |
主な職歴 | ワーナー→UA→ソニー |
ジョン・キャリー氏は、大手スタジオ「米ワーナー・ブラザース」で長い間、製作部門のトップを務めた。
そこで、「大統領の陰謀」や「エクソシスト」といった映画史に残る名作を手がけた。「大統領の陰謀」(1976年)はアカデミー賞の作品賞にもノミネートされた。ダスティン・ホフマンとロバート・レッドフォードが共演した秀作。
このほか、スティーブ・マックィーン主演の「タワーリング・インフェルノ」(1974年)でも有名だ。
それ以上に、収益面でワーナーの経営に貢献したことで有名だった。中でも、例えば、クリント・イーストウッドの「ダーティハリー」や「スーパーマン」のシリーズが大成功だった。このときの体験が、ソニーでも存分に活かされることになる。
ジョン・キャリー氏は1980年代にワーナーを去り、隠居生活に入った。ニューヨークの島を丸ごと買い取り、そこに暮らしたという。
その後、米北東部コネチカットの田園地帯へ移住した。そこで読んだ小説「日の名残り」(著者:カゾオ・イシグロ)に感動。映画化へと動き出した。
映画版「日の名残り」では、3人のプロデューサーの一人に名をつらね、見事、1994年のアカデミー作品賞にノミネートされた。本選では、「シンドラーのリスト」に敗れた。
1993年、マイケル・オービッツに依頼されて、MGM子会社のユナイテッド・アーティスツ(UA)の社長に就任した。
UAでは、シリーズものに力を入れ、スパイ映画「007」シリーズを復活させた。
その30年以上にのぼるプロデューサーとしての経歴において、映画製作費の予算超過率が1作平均3%という偉大な実績を出した。
ジョン・キャリー氏はチームワークを大切にする人物だった。ハリウッドには珍しい穏やかな性格。物腰は丁寧。
ハリウッドの業界人といえば、押しが強く、お金に貪欲。そんな中でジョン・キャリー氏は異色のキャラクターの持ち主だった。
キャリー氏の下でナンバー2を務めた野副正行氏によれば、「権力や名誉に対する執着の少ない紳士」だった。そんなに人柄を、出井伸之ソニー社長は気に入り、引き抜いたのだった。
ジョン・キャリー氏は、「(ピクチャーズの)最大の問題は経営に携わっていた幹部であり、彼らを雇った経緯には様々な問題があったと感じた」と振り返っている。
ジョン・キャリー氏は就任後、様々な改革に取り組んだ。
まず着手したのは採用だ。自分が高く評価している有能な人材を次々とスカウトした。
例えば、後に製作部門を率いることになるエイミー・パスカル氏(女性)も、このときに招き入れた。
エイミー・パスカル氏は、長年にわたりソニー映画事業の大幹部として多大な実績を築いた。ハリウッドを代表する有力プロデューサーとして名をとどろかせることになる。
ソニー・ピクチャーズが赤字を垂れ流していた原因は、常に予算をオーバーしていたことだった。
ジョン・キャリー氏とソニー本社出身の野副正行氏は、1年間で製作する総本数と、ジャンルの内訳のバランスを調整する取り組みを進めた。
カネをかけて大ヒットを狙う大作と、着実なリターンを狙う作品のポートフォリオを考えて映画を製作するようになった。
過去の実績をもとに、1本ごとの収益をシュミレーションし、予算を立てた。
シリーズ(連作)ものを重視するようになった。いわゆる「フランチャイズ映画」だ。シリーズ映画は、かなりの高確率で一定の興行収入が期待できる。
ヒットしたから続編を作るのではなく、初めからシリーズものとして売り出し、一定のファン層をつくってしまうという戦略だ。
上記の通り、シリーズ化は、もともとジョン・キャリー氏の得意分野だった。
ソニーでは、以下のシリーズもの(フランチャイズ)が誕生した。
作品名 | 興行面での結果 |
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スパイダーマン | 大成功 |
メン・イン・ブラック | 大成功 |
バッド・ボーイズ | 大成功 |
スチュワート・リトル | 成功 |
チャーリーズ・エンジェル | 最初は成功したが、後に失敗 |
スターシップ・トルーパー | 失敗 |
米国版ゴジラ | 失敗 |
ジョン・キャリー改革を後押ししたのが、ハワード・ストリンガー氏だ。
ストリンガー氏は1997年4月、米国の事業を統括するソニー・アメリカの社長に招き入れられた。シュルホフ氏が退任した後、空席になっていたポストだ。
これも、出井伸之ソニー社長による人選だった。
米テレビ放送大手のCBSで、報道部門と放送部門の社長を務めた経験の持ち主。英国生まれ。ジャーナリストではあったが、物腰が柔らかい紳士であった。
・野副正行著「ゴジラで負けてスパイダーマンで勝つ:わがソニー・ピクチャーズ再生記」