ジョン・キャリー(John Calley)氏の社長就任

ジョン・キャリー氏は3人目のソニー・ピクチャーズの社長。1996年10月に就任した。当時66歳だった。

ソニーが米コロンビア・ピクチャーズ(ソニー・ピクチャーズ)を買収した後、映画事業は経営陣の乱脈経営によって赤字を垂れ流していた。しかし、キャリーの指揮下で、ソニー映画事業は再生を果たすことになる。

任期中に映画「スパイダーマン」シリーズを立ち上げるなど、ソニー映画事業の21世紀の繁栄の基盤を築いた。

ジョン・キャリー

▲ジョン・キャリー氏

出井伸之ソニー社長による人選

ソニー・ピクチャーズの新しいトップにジョン・キャリーを選んだのは、ソニー本社の出井伸之社長だった。1995年にソニー本社の社長に就任した出井氏にとって、映画事業の立て直しは緊急の課題だった。

出井体制になってから米国のソニーの主要な幹部は次々と退任に追い込まれた。この間、出井氏は後任選びを急いだ。

米政府の元商務長官の紹介

ジョン・キャリー氏を、出井社長に紹介したのは、ソニーの社外取締役を務めていた米国人ピート・ピーターソン氏だった。

ピーターソン氏は米政府の元商務長官。投資会社ブラックストーンの創業メンバーの一人だった。盛田昭夫氏と長い親交があり、コロンビア買収にも関与していた。(ブラックストーンは、コロンビア買収のアドバイザーの業務を担当。巨額の報酬を得ていた。)

そんなピーターソン氏は、ジョン・キャリーとは旧知の仲だった。


ジョン・キャリー(John Calley)氏のプロフィール

ジョン・キャリー氏は、ソニーに入るまでは、米映画会社ユナイテッド・アーティスツ(略称:UA)の社長兼COO(最高執行責任者)だった。

ユナイテッド・アーチスツはハリウッドの老舗。1919年にチャールズ・チャップリンらによって設立された。「荒野の七人」「ウエスト・サイド物語」「ロッキー」などの不朽の名作を生み出した老舗。1980年代に経営が傾き、米MGMの子会社となっていた。

不振が続いていたが、1990年代になってジョン・キャリー氏が社長となり、経営を立て直した。

概要・略歴

<ジョン・キャリー氏のプロフィール>
生まれ ニュージャージーのジャージー・シティ(1930年7月8日)
家庭環境 経済的に貧しい家庭に生まれた。大恐慌の時代、母親はシングルマザーだった。
少年時代 ボタン工場で働いた。通学先の高校で掃除の仕事などをした。
大学 コロンビア大学に進学した。
就職 21歳でNBCに勤務した。社内の配送係(メイルルーム)でのキャリアスタートだった。
転職 1968年にワーナー・ブラザースに入った。
出世 ワーナー・ブラザースで長い間、製作部門のトップを務めた。
結婚 1972~1992年、女優Olga Schoberovと結婚。
1995~2002年、女優メグ・ティリーと結婚。ティリーは、1986年のアカデミー賞で、「アグネス」により助演女優賞を受賞している。中国系アメリカ人。
主な職歴 ワーナー→UA→ソニー

ワーナー時代(1968年~1981年)

ジョン・キャリー氏は、大手スタジオ「米ワーナー・ブラザース」で長い間、製作部門のトップを務めた。

そこで、「大統領の陰謀」や「エクソシスト」といった映画史に残る名作を手がけた。「大統領の陰謀」(1976年)はアカデミー賞の作品賞にもノミネートされた。ダスティン・ホフマンとロバート・レッドフォードが共演した秀作。

このほか、スティーブ・マックィーン主演の「タワーリング・インフェルノ」(1974年)でも有名だ。

シリーズもので収益に貢献

それ以上に、収益面でワーナーの経営に貢献したことで有名だった。中でも、例えば、クリント・イーストウッドの「ダーティハリー」や「スーパーマン」のシリーズが大成功だった。このときの体験が、ソニーでも存分に活かされることになる。

いったん隠居生活に入るが、「日の名残り」で復帰

ジョン・キャリー氏は1980年代にワーナーを去り、隠居生活に入った。ニューヨークの島を丸ごと買い取り、そこに暮らしたという。

その後、米北東部コネチカットの田園地帯へ移住した。そこで読んだ小説「日の名残り」(著者:カゾオ・イシグロ)に感動。映画化へと動き出した。

作品賞ノミネート

映画版「日の名残り」では、3人のプロデューサーの一人に名をつらね、見事、1994年のアカデミー作品賞にノミネートされた。本選では、「シンドラーのリスト」に敗れた。

ユナイテッド・アーティスツの社長時代(1993年~1996年)

1993年、マイケル・オービッツに依頼されて、MGM子会社のユナイテッド・アーティスツ(UA)の社長に就任した。

「007」シリーズを復活

UAでは、シリーズものに力を入れ、スパイ映画「007」シリーズを復活させた。

予算の枠内に収める男

その30年以上にのぼるプロデューサーとしての経歴において、映画製作費の予算超過率が1作平均3%という偉大な実績を出した。

人柄

ジョン・キャリー氏はチームワークを大切にする人物だった。ハリウッドには珍しい穏やかな性格。物腰は丁寧。

ハリウッドの業界人といえば、押しが強く、お金に貪欲。そんな中でジョン・キャリー氏は異色のキャラクターの持ち主だった。

「権力や名誉に対する執着の少ない紳士」

キャリー氏の下でナンバー2を務めた野副正行氏によれば、「権力や名誉に対する執着の少ない紳士」だった。そんなに人柄を、出井伸之ソニー社長は気に入り、引き抜いたのだった。

ピクチャーズの最大の問題は「経営陣」

ジョン・キャリー氏は、「(ピクチャーズの)最大の問題は経営に携わっていた幹部であり、彼らを雇った経緯には様々な問題があったと感じた」と振り返っている。

ジョン・キャリーの改革

ジョン・キャリー氏は就任後、様々な改革に取り組んだ。

改革1~エイミー・パスカル氏ら有能な人材をスカウト

まず着手したのは採用だ。自分が高く評価している有能な人材を次々とスカウトした。

例えば、後に製作部門を率いることになるエイミー・パスカル氏(女性)も、このときに招き入れた。

エイミー・パスカル氏は、長年にわたりソニー映画事業の大幹部として多大な実績を築いた。ハリウッドを代表する有力プロデューサーとして名をとどろかせることになる。

改革2~予算の管理とジャンルの調整

ソニー・ピクチャーズが赤字を垂れ流していた原因は、常に予算をオーバーしていたことだった。

ジョン・キャリー氏とソニー本社出身の野副正行氏は、1年間で製作する総本数と、ジャンルの内訳のバランスを調整する取り組みを進めた。

カネをかけて大ヒットを狙う大作と、着実なリターンを狙う作品のポートフォリオを考えて映画を製作するようになった。

過去の実績をもとに、1本ごとの収益をシュミレーションし、予算を立てた。

改革3~「シリーズ」もの重視

シリーズ(連作)ものを重視するようになった。いわゆる「フランチャイズ映画」だ。シリーズ映画は、かなりの高確率で一定の興行収入が期待できる。

ヒットしたから続編を作るのではなく、初めからシリーズものとして売り出し、一定のファン層をつくってしまうという戦略だ。

上記の通り、シリーズ化は、もともとジョン・キャリー氏の得意分野だった。

ソニーでは、以下のシリーズもの(フランチャイズ)が誕生した。

<ジョン・キャリー時代に生まれたソニー映画シリーズ>
作品名 興行面での結果
スパイダーマン 大成功
メン・イン・ブラック 大成功
バッド・ボーイズ 大成功
スチュワート・リトル 成功
チャーリーズ・エンジェル 最初は成功したが、後に失敗
スターシップ・トルーパー 失敗
米国版ゴジラ 失敗

米国ソニー社長にストリンガー氏が就任(1997年4月)

ジョン・キャリー改革を後押ししたのが、ハワード・ストリンガー氏だ。

ストリンガー氏は1997年4月、米国の事業を統括するソニー・アメリカの社長に招き入れられた。シュルホフ氏が退任した後、空席になっていたポストだ。

これも、出井伸之ソニー社長による人選だった。

米テレビ放送大手のCBSで、報道部門と放送部門の社長を務めた経験の持ち主。英国生まれ。ジャーナリストではあったが、物腰が柔らかい紳士であった。

参考文献・サイト

・野副正行著「ゴジラで負けてスパイダーマンで勝つ:わがソニー・ピクチャーズ再生記」



ソニーの映画買収

ソニーの歴代社長

マイケル・リントン社長(ジョン・キャリー氏の後任)