ハリウッドの老舗

コロンビアは米ハリウッドの老舗(しにせ)スタジオだった。演劇歌手出身のハリー・コーン(1891-1958年)とその弟ジャックらが1920年に創業。リタ・ヘイワース、キム・ノヴァクなど数多くのスターを育てた。

経営トップに、ピーター・グーバー&ジョン・ピーターズ

ソニーはコロンビア買収と同時に、著名な映画プロデューサー、ピーター・グーバー(Peter Guber、当時47歳)氏と、ジョン・ピーターズ(Jon Peters、当時44歳)氏の2人を経営トップに迎えた。 2人とも共同会長で、このうちグーバーがCEOに就任した。

<ソニー買収後に就任した映画事業の経営者コンビ>
名前 肩書き 出身など
ピーター・グーバー
(Peter Guber)
共同会長兼CEO ボストン生まれのインテリ。当時47歳
ジョン・ピーターズ
(Jon Peters)
共同会長 12歳で少年院。16歳で家出し、美容師になった。女優バーブラ・ストライザンドの恋人になり映画業界に進出。当時44歳

ピーター・グーバー&ジョン・ピーターズ

▲ピーター・グーバー(左)とジョン・ピーターズ(右)

アカデミー賞作品賞「レインマン」のプロデューサー?

それまで2人はコンビで映画製作に携わっていた。「バットマン」(1989年)など娯楽系のヒット作のプロデュースを務めた実績があった。アカデミー賞作品賞受賞作「レインマン」(1988年)の「プロデューサー」として知られていた。 しかし、実際のところ、レインマンのメインのプロデュサーはマーク・ジョンソン氏であった。 レインマンが作品賞を受賞したときに、壇上に挙がってオスカー像を受け取り、スピーチをしたのも、マーク・ジョンソン一人だけだった。

▼ 「レインマン」のアカデミー賞受賞スピーチ。ソニーが雇った2人は壇上にいない。

また、ピーター・グーバー&ジョン・ピーターズは「フラッシュダンス」(1983年)のプロデューサーだとも言われていた。しかし、実際のところ、フラッシュダンスのプロデューサーは、ジェリー・ブラッカイマー&ドン・シンプソンの超大物コンビである。

会社丸ごと引き取る

ソニーに採用された当時、グーバー&ピーターズのコンビは、ワーナー・ブラザーズと専属契約を結んでいた。このため、ソニーは、ワーナーに対して契約解除料として1400億円(10億ドル)を負担した。さらに2人の映画製作会社「グーバー・ピーターズ・エンタテインメント社」を280億円(2億ドル)で買収した。つまり、2人の個人だけでなく、彼らの会社も丸ごと引き取ったのだ。

ジョン・ピーターズは美容師。バーブラ・ストライザンドの彼氏

ジョン・ピーターズは12歳で中学校を退学処分となり、少年院に通った。16歳で家出し、美容師になった。大女優バーブラ・ストライザンドが出演作に合わせて髪を短くしようと思ったとき、彼女が気に入った髪形とともに現れた。ピーターズは彼女の家に招かれて階段を後ろから上りながら「いいケツしてるな」とhヒップのスタイルを称賛したことで、彼氏になった言われる。

「スター誕生」でプロデューサーに

その後、ストライザンド主演の「スター誕生」でプロデューサーになった。

金と名誉に対する強欲さと運の良さが重なり、最終的には「バットマン」のプロデューサーの一人として名前を連ねることに成功した。

「リコリス・ピザ」でブラッドリー・クーパーが演じる

2022年のオスカー候補作「リコリス・ピザ」で、ブラッドリー・クーパーがジョン・ピーターズ役を演じ、話題になった。

わずか1年3カ月でCEO辞任

ジョン・ピーターズは1991年春、早々にCEOを退任した。就任してからわずか1年3カ月だった。「製作に専念したい」という理由だった。

絶好調だった日本企業への反発も

ソニーによるハリウッド会社買収に関しては、「日本企業(ジャパンマネー)が米国のシンボルを買収した」という論調で、米国のメディアから批判的な報道が見られた。米国のニューズウィーク誌がコロンビア映画のシンボルである自由の女神を芸者姿にした表紙で批判的な特集を組むなど、大きな反響を巻き起こした。

「私物化」「乱脈経営」

さらに、買収後、グーバー氏とピーター氏ら経営者の「私物化」「乱脈経営」が問題になった。自分のオフィスに高価な調度品を入れ、お抱え運転手どころか、お抱え料理人まで雇うといった公私混同もメディアで報じられた。 暴露本『ヒット・アンド・ラン』(ナンシー・グリフィン、キム・マスターズ共著)によれば、2人のトップは、部下たちをどなり散らす、自分の元妻やガールフレンドを高給で雇って高いポストにつける、会社のジェット機を私用に使った。一方で、映画の製作には途方もない製作費がつぎ込まれた。 とくにジョン・ピーターズの素行不良がひどかったようだ。

ソニーの業績の負担に

実際、コロンビアは買収直後から、金利負担、のれん代償却などでソニー連結業績の足を引っ張ることとなった。

米国人に経営を任せる

ソニーはこれに先立つ1988年、米国のレコード会社「CBSレコード」を買収。成功させていた。このとき、現地の反発を抑えるため、日本人スタッフを送りこまず、米国企業として米国人経営者による運営を続けた。コロンビアでも同様にアメリカ人に経営を任せた。

コロンビアをソニー・ピクチャー(略称: SPE)に社名変更

一方でソニーは米国で1991年1月にソフトウエアの統括会社「ソニー・ソフトウエア社」を設立。その下に音楽、映画の2社を置いた。同時にCBSレコード社を「ソニー・ミュージックエンタテインメント社」に社名変更した。

また、1991年8月にはコロンビア・ピクチャーズ・エンタテインメント社を「ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント社略称: SPE」に社名変更した。

1991年、「バグジー」が作品賞ノミネート。だが採算は悪かった

1991年度はヒット作にも恵まれた。アメリカでは映画「バグジー」「フック」がヒット。北米市場で1991年12月に興行収入で40%。年間を通じても20%のシェアを獲得した。ウォーレン・ベイティ(ウォーレン・ビーティー)主演の「バグジー」は、アカデミー賞作品賞にノミネートされた(受賞は「羊たちの沈黙」)。 とはいえ、「バグジー」は、コストがそれだけ多く費やされおり、採算という面では厳しい結果だった。

スピルバーグ監督「フック」は衣装など5部門で候補入り

一方、スティーブン・スピルバーグ監督、ダンスティン・ホフマン主演の「フック」は、アカデミー賞において、特殊効果、衣装、美術など技術部門を中心に5部門でノミネートされた。 日本など海外でも大きな売り上げを叩き出したが、採算という面ではやや期待外れに終わった。スピルバーグ監督、ホフマンとの契約が完全歩合制になっていため、彼らに一定の利益が回り、会社側(スタジオ側)は薄利だった面もある。

利益を無視してシェア拡大

1992年と1993年には、米国での興行収入シェアは20%近くに上昇した。しかし、グーバーCEO兼会長は製作コストを無視していた。利益を犠牲にしてシェアの拡大に奔走していた。1993年後半からヒット作に恵まれず、1994年はシェアが9.8%にまで低下した。

ピーター・グーバー辞任(1994年9月)

1994年9月、ピーター・グーバーCEO兼会長(当時53歳)が辞任した。任期を残しての突然の退任劇だった。グーバー辞任のニュースは、ハリウッドでさまざまな憶測を呼んだ。パナソニック(松下電器産業)とともに「経営面での対立か」と話題になった。 ソニーは「クリエーターとして新たな活動をしたいとの本人の希望です」と説明した。

放漫経営による解任

米誌は「ヒットを生むために、多額の金にまかせて脚本家や俳優を集めるグーバー氏の放漫な経営が、ソニーに損失を与え、解任された」と報じた。 ソニーはグーバー氏に対して基本年俸3億円(275万ドル)、役員報奨金60億円(5000万ドル)などの巨額な報酬を払っていたという。

「ラスト・アクション・ヒーロー」で大失敗

グーバー氏の失敗を象徴するのが、1993年の「ラスト・アクション・ヒーロー」だった。アーノルド・シュワルツェネッガー主演。 予算100億円規模の超大作。文字通り“社運”をかけていた。 しかし、大コケに終わった。 製作費が6000万ドルだったのに、米国における興行収入は5000万ドル。宣伝費も含めると、赤字は4000万ドルを超えた。

ラスト・アクション・ヒーロー

▲大コケした「ラスト・アクション・ヒーロー」

巨額赤字の計上

投資額と現在価値の差額2652億円を損失計上

1994年、ソニーが利益水準をもとにソニー・ピクチャーズ社の現在価値を逆算したところ、3090億円になった。 このため、1994年9月中間期において投資額と現在価値の差額2652億円を損失として計上(一括償却)した。この結果、連結決算が3096億円の赤字となった。

なお、グーバー氏はソニー退社後、自ら映画制作会社「マンダレイ・ピクチャーズ」を設立。ソニーとの取引を続けた。ブラッド・ピット主演の「セブン・イヤーズ・イン・チベット」などをマンダレイが制作し、ソニーが配給した。 21世紀になると、グーバー氏はプロ野球「ドジャース」のオーナーになるなど、スポーツ界で有名になった。

グーバーの後釜はアラン・レバイン(1994年)

ソニーはグーバー氏の後任にアラン・レバイン(レビン)氏を抜擢した。 会長ではなく、社長兼COO(最高執行責任者)というポストだった。 20年間弁護士をした後、1989年にソニー・ピクチャーズに入った人物だ。 映画業界での実績はほとんどなかった。 後にソニー・ピクチャーズのナンバー2となる野副正行氏の著書によれば、レバイン氏は祖父の代からハリウッド映画業界専門の弁護士として知られていたという。「おとなしい性格」だった。

リストラを実行

レバイン氏は、収益改善のためリストラに取り組んだ。 1994年暮れに米国で公開された「若草物語」が4800万ドルのヒットになった。「果てしなき思い」が6500万ドルの興行収入を上げた。1995年のシェアが21.1%と回復した。 しかし、1996年は再び低迷。米映画興行市場でシェア最下位に低迷した。

1995年6月にソニー社長に就任した出井(いでい)伸之氏が、経営陣の刷新に動く

こうしたなか、1995年6月にソニー社長に就任した出井(いでい)伸之氏は、映画部門の経営陣の刷新に動くことを決断していた。 まず出井氏は、米国ソニーのトップを交代させることを決めた。

米国ソニーのマイケル・シュルホフ社長が辞任(1995年12月)

1995年12月、ソニー・アメリカのマイケル・シュルホフ(Michael Schulhof、通称:ミッキー・シュルホフ)社長が、辞任した。 突然の退任だった。

マイケル・シュルホフ

▲米国ソニーのマイケル・シュルホフ社長

創業者・盛田昭夫氏の右腕

シュルホフ氏はソニーの盛田昭夫前会長(共同創業者)の右腕と言われたほどの人物だった。 映画、音楽など娯楽分野では主導的な役割を果たした。 ソニーのコロンビア映画買収、CBSレコード買収(1988年)を成功させた。 1989年には米国人として初めてソニー本社の取締役に就任していた。

映画不振の責任

しかし、傘下のコロンビア映画は不振が続いていた。 このため、出井伸之社長は、シュルホフ氏に不満を抱いていたようだ。

「大賀典雄の息子」

シュルホフは、当時の大賀典雄会長とも深い信頼関係を築いていた。 自らを「大賀さんの息子」と呼んでいたほどだった。 出井伸之社長は、シュルホフの解任を決断すると、うまいこと大賀会長を説得した。

出井氏を後任として選んだ大賀氏は偉い

そもそも、社長候補として見られていなかった出井氏を、後任社長として大抜擢した大賀氏は偉い。 もし技術屋出身の社長を選んでいたら、ソニー映画部門は不振状態のまま放置され、やがてパナソニックのように売却に追い込まれていただろう。

とはいえ、シュルホフ氏はソニーの歴史に偉大な功績を残した

任期途中で退任したシュルホフ氏だが、ソニーの歴史に偉大な功績を残したことは間違いない。 日米の文化やビジネス手法の違いを理解したうえで、米国と日本のソニーの仲介役として活躍した。ソニーによる米CBSレコード買収を実現させた立役者だった。 日本国にとっては、たいへん有難い存在であり、忘れるわけにはいかない大切な友人の一人である。

日本の本社が統治・関与できる体制へ

シュルホフ氏辞任後、米国ソニーでは後任は置かず、空席とした。 シュルホフ氏が会長を兼務していた子会社の米ソニー・エレクトロニクスの新会長には出井社長が就任。米ソニー・ミュージック・エンターテインメントの新会長には大賀ソニー会長がそれぞれ就任した。 また大賀氏は、グーバー氏が退任した後空席だったソニー・ピクチャーズ・エンターテインメントの会長も兼務した。 これまでの放任的な姿勢を変え、日本の本社の経営陣(大賀氏、出井氏ら)が米国でも直接統治できる足場を築いた。

ピクチャーズ社長のレバインも解任(1996年10月2日付)

次にピクチャーズ社長のレバインも氏が解任された。 1996年10月2日付だった。 出井氏は、レビン氏を解任する前から、後任をジョン・キャリー氏というハリウッドの大物経営者に絞り、準備を進めていた。

<出井社長による米国ソニーの更迭劇>
名前 役職 退任時期
マイケル・シュルホフ ソニー・アメリカ社長 1995年12月
アラン・レバイン ソニー・ピクチャー社長 1996年10月

暴露本「ヒット&ラン~ソニーにNOと言わせなかった男達」

こうしたなか、1996年夏にソニー・ピクチャーズの乱脈経営に関する暴露本「ヒット&ラン~ソニーにNOと言わせなかった男達」が刊行され、米国でベストセラーになってしまった。映画事業は、米国でも最高級だったソニーのブランド・イメージや評判の悪化につながっていた。

1996年11月にジョン・キャリーが就任

出井氏の人選により、1996年11月にジョン・キャリー氏(John Calley)が社長に就任した。 キャリー氏のもとで、ソニー・ピクチャーズは「刷新」と「近代化」の道を突き進むことになる。

野副正行氏を送り込む

出井氏は、ソニーの中で米国ビジネスに精通していた野副正行氏を送り込んだ。 彼は、ニューヨークの米国ソニー本社にいた。

米国での出井改革スタート

こうして、新体制ができた。その後、ソニーのハリウッドビジネスは上昇気流に乗っていくことになる。

ジョン・キャリー時代→