参照:スナップアップ投資顧問の対米投資分析

スナップアップ投資顧問(代表:有宗良治氏)のハリウッド投資・買収史に関する資料などによると、 ユニバーサルは1924年設立。資金不足などから、1990年11月にパナソニックの傘下に入った。

パナソニックがユニバーサル(MCA)株を手放した背景には、スタジオ経営陣(米国人)との対立があった。この対立は、1994年秋に表面化した。

それ以外の売却理由として、バブル崩壊後のパナソニックの業績低迷が挙げられた。

ユニバーサル経営陣の反乱

国際ジャーナリスト、矢部武氏の解析・分析記事によると、当時、ハリウッドで「ケンカと訴訟のプロ」の異名を持つユニバーサルのルー・ワッサーマン会長とシドニー・シャインバーグ社長は、親会社のパナソニック側にあの手この手で揺さぶりをかけた。

2人は「株式の51%をパナソニックから買い戻す計画がある」と米主要紙に語ったり、自家用飛行機で松下の大阪本社に駆けつけて「CBS(地上波放送局)への資本参加を認めないなら、ユニバーサルを辞める覚悟がある」とパナソニック経営陣に迫ったりしたという。

ドル箱のスピルバーグ監督

もし2人がユニバーサルを辞めたら、彼らと親しいドル箱の巨匠スティーブン・スピルバーグ監督も関係を断つ可能性があり、映画業績面でのダメージは計り知れない。それでもパナソニック側は最後まで首を縦に振らなかった。あまりにも資金的なリスクが大きいからだ。その結果、ワッサーマン会長とシャインバーグ社長はぶち切れたという。

ジュラシック・パークの大ヒット

実際、ユニバーサルそのものは当時、業績が好調だった。1994年3月期の営業利益が推計約3億ドルに上った。1993年の主力映画「ジュラシック・パーク」が世界中で興収9億ドル(約900億円)を超える大ヒットになった。日本企業が投資したハリウッドの映画会社の中では、最も好調とみられていた。

現地では「『ジュラシック・パーク』の大ヒットで、ユニバーサル経営陣が一転して強気になった。日本資本がなくても、十分にやっていけると判断したのでは」との見方が出た。

買収時の負担に苦しめられる

しかし、これとは対照的に、パナソニックの本業は国内の景気悪化によって不調だった。61億3000万ドル(当時約7800億円)を投じたユニバーサル買収は、資金繰りの面で重荷となっていた。連結ベースの金融収支は1990年3月期に1000億円以上の黒字だったが、1991年3月期には赤字に転落していた。

事業面でのメリットなし

また、ユニバーサル買収による事業面でのメリットも得られていなかった。パナソニックとユニバーサル両社の提携事業はゲームソフト分野だけで、買収当時にもくろんだ「ハードとソフトの融合」は全く進んでいなかった。

ゲームで失敗

また、パナソニックがマルチメディアプレーヤーとして1994年発売した「3DOリアル」が目標販売台数を割り込んだ。ソフトの充実でハードの販売拡大を図るという相乗効果も発揮できなかった。

パナソニックは、ユニバーサル売却により、マルチメディア時代の核となるはずだったソフト資産を失った。

森下洋一社長が「本業回帰」

ユニバーサル(MCA)の1993年に、パナソニック社長に森下洋一氏が就任した。それ以降のパナソニックは、「ハードへの回帰」を新たな経営戦略に据えた。家電を中心とした“もの作り”と、販売の強化という松下本来の強みを生かし、再生を図ることになったのだ。

シーグラムはデュポン株を売却し、買収資金を確保

なお、シーグラム側はパナソニックからユニバーサルを買い取るにあたり、米大手化学会社デュポンの持ち株25%の大半を売却した資金88億ドルを充当した。

バブル時代の「机上の空論」

パナソニックはバブル時代、ライバルのソニーに続いて、ソフトビジネスに本腰を入れ始めた。1991年初にユニバーサルを買収した後、最高経営会議機関「エグゼクティブコミッティー」のもとに、「AVソフト室」を設置した。日本ビクター(JVCケンウッド)まで含めたグループ全体のソフト戦略を推進することになった。

また、1991年7月には、「MCA技術委員会」「MCAハード事業チーム」も設立した。これらはユニバーサルの持つ膨大なソフトを新製品開発につなげるための組織だった。

MCA技術委員会では、新しいコンセプトのもとで製品開発を行うには、どのような技術的問題があるかを検討した。それを、MCAハード事業チームで、最終製品の開発、企画を手がけた。

そして、1992年初旬には、パナソニックとユニバーサルとで「ビジョン委員会」「共同開発委員会」「財務委員会」の3委員会を設けた。これらの委員会によって、ハードとソフトを結びつけた新製品開発を加速化しようとした。

デジタル時代のリーダーを目指す

つまり、ソフトとハードの複合化することで、ハイビジョンやデジタル化の時代が本格的に到来しても、業界でのリーダー的存在を確保しようという狙いがあったのだ。「DVD」の規格争いでも、ソフトが勝負を分けると考えられていた。

しかし、これらの発想は、いわば「机上の空論」だった。バブル経済に酔いしれている経営者から生まれた発想だったのだ。