交渉

スナップアップ投資顧問(代表:有宗良治氏)のハリウッド投資・買収史に関する資料などによると、パナソニックにユニバーサルの身売り話を持ち込んだのは、ハリウッドの「陰の演出者」といわれるマイケル・オービッツ氏(クリエイティブ・アーティスツ・エージェンシー代表)だった。映画監督、プロデューサー、大物俳優を結びつけるフィクサーだ。

当時パナソニックの子会社だったJVC(日本ビクター)とユニバーサルは、日本での合弁会社設立の協議をしており、オービッツはその橋渡しをしていた。その過程で、ユニバーサル本体の売却を持ちかけたという。パナソニックは、オービッツ氏を代理人に選定し、交渉に入った。

このころ、ユニバーサルは資金不足に悩んでいた。競合する他のハリウッド映画メジャーは、次々と巨大資本の傘下に入っていたが、ユニバーサルは独立路線を歩んでいた。資本力がますますものを言う映画産業の行方を考えると、資金力が豊富な企業に身売りするのは賢明に思われた。また、創業者のワッサーマン会長は高齢であり、保有株式を高値で売りたいという意向もあったようだ。

とはいえ、ユニバーサルはパナソニックより規模は小さいが、売上高33億8200万ドル(約4400億円)を誇り、過去5年間の平均営業利益率は10%以上の超優良企業だった。

劇場用映画「ジョーズ」「スティング」「E・T」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」などのヒット作を誇っていた。 それに加えて、「マイアミ・バイス」などで知られるテレビ番組やホームビデオといった映像部門が、売上高約34億ドルのうち半分を占めていた。 レコード部門もボビー・ブラウンら黒人ポップスを中心に好調だった。

日本でのビデオ、レコードの販売権は、パナソニック傘下のJVCが既に手にしていた。

米ハリウッドでテーマパークの映画村「ユニバーサル・スタジオ」も経営していた。年間入場者数は500万人だった。

合意

買収合意は1990年11月26日だった。買収総額は約61億ドル(当時の為替レートで約7800億円)。前年のソニーによる米映画会社コロンビア・ピクチャーズ・エンターテインメントの買収額34億ドル(約4800億円)を大きく上回った。日本企業の海外企業買収としては史上最高額。

記者会見に臨んだ谷井昭雄パナソニック社長は、買収について「ハードとソフトは車の両輪。映像・音響のソフト分野でも新事業を展開したい」と語った。今後の高品位テレビ(ハイビジョン)やDVDの普及にも不可欠といわれ、ソニーが先行するソフト部門に本格参入する意義を強調した。

パナソニックは、買収金額の3分の2(40億ドル)を手元の資金でまかなった。現金、預金、保有株式などだ。残りは、米国で社債を発行した。

買収後

買収のためのTOB(株式の公開買い付け)が完了した後の1991年1月、谷井パナソニック社長は米国のユニバーサル本社を訪問。ワッサーマン会長、シャインバーグ社長らと会談した。その結果、ユニバーサルの取締役に、谷井社長、平田雅彦副社長、村瀬通三副社長ら12人が就任することが決まった。ユニバーサル側も、従来の経営陣11人がすべて留任することになった。

さらに、ユニバーサルの経営に対する最高意思決定機関として「エグゼクティブ・コミッティー」の設置が決まった。コミッティーには、平田副社長、村瀬副社長、豊永惠哉専務、ユニバーサル側からワッサーマン会長、シドニー・シャインバーグ社長の計5人で構成されることになった。

不協和音

しかし、パナソニックと、ユニバーサルの米国経営者たちは、意思疎通がうまくいかず、不協和音が生まれた。対立は1994年秋に表面化した。 業績が好調で強気になったユニバーサル経営陣が、他のメディア企業やエンタメ企業の買収に意欲を示し、これを親会社のパナソニックが拒絶したのだ。 とりわけ、地上波放送局CBSの買収話に熱心だった。

辞任をちらつかせる

国際ジャーナリスト、矢部武氏の解説・分析記事などによると、当時、ハリウッドで「ケンカと訴訟のプロ」の異名を持つユニバーサルのワッサーマン会長(当時81歳)と、「瞬間湯沸かし器」と呼ばれるシドニー・シャインバーグ社長(当時59歳)は、自家用飛行機で来日し、パナソニックの大阪本社に乗り込んできた。「CBS買収を認めないなら、ユニバーサルを辞める覚悟がある」とパナソニック経営陣に迫ったという。

ワッサーマン会長とシャインバーグ社長の2人がユニバーサルを辞めたら、彼らと親しいドル箱の巨匠スティーブン・スピルバーグ監督も関係を断つ可能性があり、映画業績面でのダメージは計り知れない。だが、パナソニックの村瀬通三副社長(当時62歳)は、2人にきっぱりと「ノー」を突きつけた。あまありにも資金的なリスクが大きいからだ。

また、ユニバーサルは音楽部門が海外で弱かったため、英ヴァージン・レコードの買収を検討した。しかし、これもパナソニックの消極的な姿勢で断念した。ケーブルテレビ「TCI」への出資構想も実現しなかった。

ジュラシック・パークの大ヒット

ユニバーサル経営陣がやたらと強気になった理由は、足元の業績が絶好調だったからだ。1994年3月期の営業利益が推計約3億ドルに上った。1993年の主力映画「ジュラシック・パーク」が世界中で興収9億ドル(約900億円)を超える大ヒットになった。日本企業が投資したハリウッドの映画会社の中では、最も好調とみられていた。

現地では「『ジュラシック・パーク』の大ヒットで、ユニバーサル経営陣が一転して強気になった。日本資本がなくても、十分にやっていけると判断したのでは」との見方が出た。

買収時の負担に苦しめられる

しかし、これとは対照的に、パナソニックの本業は国内の景気悪化によって不調だった。61億3000万ドル(当時約7800億円)を投じたユニバーサル買収は、資金繰りの面で重荷となっていた。連結ベースの金融収支は1990年3月期に1000億円以上の黒字だったが、1991年3月期には赤字に転落していた。

事業面でのメリットなし

また、ユニバーサル買収による事業面でのメリットも得られていなかった。パナソニックとユニバーサル両社の提携事業はゲームソフト分野だけで、買収当時にもくろんだ「ハードとソフトの融合」は全く進んでいなかった。

ゲームで失敗

また、パナソニックがマルチメディアプレーヤーとして1994年発売した「3DOリアル」が目標販売台数を割り込んだ。ソフトの充実でハードの販売拡大を図るという相乗効果も発揮できなかった。

パナソニックは、ユニバーサル売却により、マルチメディア時代の核となるはずだったソフト資産を失った。

森下洋一社長が「本業回帰」

ユニバーサル(MCA)の1993年に、パナソニック社長に森下洋一氏が就任した。それ以降のパナソニックは、「ハードへの回帰」を新たな経営戦略に据えた。家電を中心とした“もの作り”と、販売の強化という松下本来の強みを生かし、再生を図ることになったのだ。

シーグラムはデュポン株を売却し、買収資金を確保

なお、シーグラム側はパナソニックからユニバーサルを買い取るにあたり、米大手化学会社デュポンの持ち株25%の大半を売却した資金88億ドルを充当した。

バブル時代の「机上の空論」

パナソニックはバブル時代、ライバルのソニーに続いて、ソフトビジネスに本腰を入れ始めた。1991年初にユニバーサルを買収した後、最高経営会議機関「エグゼクティブコミッティー」のもとに、「AVソフト室」を設置した。日本ビクター(JVCケンウッド)まで含めたグループ全体のソフト戦略を推進することになった。

また、1991年7月には、「MCA技術委員会」「MCAハード事業チーム」も設立した。これらはユニバーサルの持つ膨大なソフトを新製品開発につなげるための組織だった。

MCA技術委員会では、新しいコンセプトのもとで製品開発を行うには、どのような技術的問題があるかを検討した。それを、MCAハード事業チームで、最終製品の開発、企画を手がけた。

そして、1992年初旬には、パナソニックとユニバーサルとで「ビジョン委員会」「共同開発委員会」「財務委員会」の3委員会を設けた。これらの委員会によって、ハードとソフトを結びつけた新製品開発を加速化しようとした。

デジタル時代のリーダーを目指す

つまり、ソフトとハードの複合化することで、ハイビジョンやデジタル化の時代が本格的に到来しても、業界でのリーダー的存在を確保しようという狙いがあったのだ。「DVD」の規格争いでも、ソフトが勝負を分けると考えられていた。

しかし、これらの発想は、いわば「机上の空論」だった。バブル経済に酔いしれている経営者から生まれた発想だったのだ。