5部門でノミネート

主演男優賞、主演女優賞、衣装デザイン賞、メイク&ヘア賞、美術賞

オスカーの予想を集計するサイト「ゴールドダービー」などによると、 マ・レイニーのブラックボトムは主演男優賞の有力順位が1位となっています。 衣装デザイン賞とメイクアップ&ヘアスタイリング賞も1位の予想されています。(2021年3月18日現在)。

<ノミネート一覧>
ノミネート 主演男優賞
チャドウィック・ボーズマン
(1位)
主演女優賞
ビオラ・デービス
(4位)
衣装デザイン賞
アン・ロス
(1位)
メイクアップ&ヘアスタイリング賞
(1位)
美術賞
(2位)

※参考:米予想サイト「ゴールドダービー」

マ・レイニーとは

ブルース歌手。ブルースの母と呼ばれた。パワフルな歌唱が特徴。

ほぼ同時代に活躍した女性ブルース歌手ベッシー・スミスとは、旧知の友人だった。

マ・レイニーの生涯(年表)

1886年
4月
米南部ジョージア州コロンバスに生まれる。
5人兄弟姉妹の2人目の子供だった。
本名はガートルード・プリジェット。
1898年
(12歳)
地元コロンバスの劇場「スプリンガー・オペラ・ハウス」に出演
1904年
(18歳)
結婚(相手はウィル・パ・レイニー)
※夫の名前にちなんで、「マ・レイニー」と名乗るようになった。
1906年
(20歳)
フロリダ州出身の黒人起業家パット・チャペルが運営する劇団に加盟する。
歌手として人気を集める。
1923年
(37歳)
レコード会社「パラマウント」のプロデューサーに見いだされ、契約を結ぶ。
シカゴで最初のレコーディングを行う。
レコーディングしたのは8曲。この中には後に代表作となる「Bo-Weevil Blues」「Moonshine Blues」も含まれる。
「ブルースの母」としてデビュー。以後5年間で、100回以上レコーディングを行った。
1924年
(38歳)
ルイ・アームストロングと共演
1927年
(41歳)
映画の題名にもなる「Ma Rainey's Black Bottom」をレコーディング。
1928年
(42歳)
同性愛(レズビアン)を想起させる曲「Prove It on Me」を録音。
1933年
(47歳)
母親が死亡。
1935年
(49歳)
歌手活動から引退。
地元のジョージア州コロンバスで興行主として仕事を続ける。
1939年
12月
(53歳)
心臓発作により死去
(死亡当時、自ら3つの劇場を運営していた)

動画

Netflix

ネットフリックスの配信ページ→


映画の予告編


日本公開日

2020年12月18日

アメリカ黒人の大移動(大移住)とは

アメリカでは、20世紀、膨大な人数の黒人(アフリカ系アメリカ人)が南部から北部へ移住した。
南部の差別を逃れるためだ。
これを「アメリカ黒人の大移動(大移住)」という。英語では「グレート・マイグレーション(Great Migration)」と呼ばれる。
大量移動は、第一次大戦(1914年-1918年)ころから本格化した。
1960年代まで波状的に続いた。

南部の農場で奴隷として働く

黒人たちは17世紀半ば、奴隷としてアフリカ大陸から米国に連行された。
以来、南部のプランテーションなどに閉じこめられてきた。

ジム・クロウ法による人種差別

1863年の奴隷解放宣言後、黒人は法的には市民権を得た。
しかし、1896年に最高裁が隔離政策を認める判決を下した。
それ以来、南部諸州は様々な隔離法を制定した。
ジム・クロウ法と呼ばれる。
ジムクロウ法に基づき、米国南部では19世紀末から20世紀半ばまで、黒人隔離政策が続いた。

過酷な労働やリンチ事件

黒人たちは引き続き過酷な労働やリンチ事件に苦しんでいた。
黒人農民たちは、シェアクロッパー制と呼ばれた過酷な小作農制度下で極貧生活を強いられた。

北部の工業地帯での人手不足

一方、20世紀前半の第一次大戦時、アメリカ北部のニューヨーク、デトロイト、シカゴといった大都市は、戦争特需で深刻な人手不足(労働力不足)に直面した。

欧州移民が減少し、黒人が頼りに

頼りにしていた欧州からの移民流入には、陰りが見え始めていた。雇用主にとって、南部からの黒人は貴重な労働力となった。

南部よりも賃金・待遇が良い

1920年前後の未熟練工の平均賃金は南部の都市で1日1ドルだった。
これが北部では5ドル前後だった。南北で大きな格差があったのだ。

シカゴ

南部の黒人に最も魅力的に映っていた北部の工業都市はシカゴだった。
大戦中から1930年代までに、約200万人の黒人が南部からシカゴなどに移住した。

アメリカの全黒人の4-5割

1960年代までに北部やロサンゼルスなど西部の都市部に移動した黒人もあわせると、700万人近くに上る。
それはアメリカの全黒人の4-5割を占めた。

ゲットーの問題

むろん、北部の都市部でも貧困ゲットーの問題を抱えるなど、黒人にとって北部は理想郷(約束の地)ではなかった。

公民権運動の下地に

しかし、半奴隷状態にあった黒人の社会的、政治的覚せいを大きく促すことにはつながった。
黒人の「意識の目覚め」は1950年代、1960年代の公民権運動の下地をつくっていくことになった。