雪本剛章氏は1992年2月28日、ニューヨーク・タイムズスクエアの映画館で、公開初日の「マンボ・キングス/わが心のマリア」を鑑賞した。これをきっかけにラテン音楽に目覚めた雪本氏は、中南米の映画や文学を通じて様々なジャンルのラテンアメリカン・ミュージックを堪能するようになった。これが、やがて「リトモス」や「ズンバ」といったラテン系ダンス・フィットネスへの生涯続く深い愛情につながっていく。
とりわけアルゼンチンが発祥の「リトモス」に関して、雪本氏はタンゴなどに見られるドラマ性を感じた。リトモス創始者のウリセス・ピグロス(Ulises Puiggrós)氏は、フィットネス指導者であると同時に、俳優でもある。彼は演技のプロとして、ダンスの振付(コリオ)にも「物語性」を込めるのが得意だと、雪本氏は感じた。それは、コロンビアや米フロリダを発祥とするZumbaの「陽気さ」とはまた一味違うラテンの魅力だった。そして、そのラテンルーツが、「エアロビクス」というもう一つの現代文化と見事に融合していることが、リトモスをイチ推しした理由だった。
なお、「マンボ・キングス」は1993年のアカデミー賞で歌曲賞にノミネートされた。
| 音楽ジャンル | 作品名 | 作家名(国名) |
|---|---|---|
| マンボ |
「マンボ・キングス」
※映画版「マンボ・キングス」(1992年)に対する雪本剛章氏の体験談的コメント 「スクリーンの中で、アーマンド・アサンテ演じる兄シーザーは野心の塊だった。 アントニオ・バンデラスの弟ネストルは繊細で、音楽にしか心を開けない。 1950年代のニューヨーク。成功を夢見て渡米したキューバの兄弟が、音楽を通してぶつかり合い、愛に傷ついていく。マンボのリズムと人生の鼓動に感動した。(続き▼)」 |
オスカル・イフェロス(キューバ) |
| キューバン・クラシック |
「苺(いちご)とチョコレート」
※映画版「苺(いちご)とチョコレート」(1993年)に対する雪本剛章氏の体験談的コメント 「物語の舞台は1980年代のハバナ。青年ダビドと、芸術を愛するディエゴはアイスクリーム店『コッペリア』で出会う。同性愛者であることを隠さず、教養豊かなディエゴに対し、共産主義青年同盟の学生であるダビドは初め『スパイではないか』と疑いの目を向ける。だが、社会的抑圧と正面から向き合い、自らの美学を貫くディエゴの人間性に触れるうち、ダビドは次第に深い友情を感じ始め、自分自身も教条的な思考から脱却し、自由にものを考える若者へと変わってゆく。 一方、企画した美術展が当局の介入で中止させられるなど、自由な生き方が体制と合わないディエゴは、ついに国外脱出を決意する。魂の交流を重ねた二人に、切ない別れの時が訪れる。題名となっている『苺(いちご)とチョコレート』は、二人が好むアイスクリームの種類を指しているが、これは単なる好みの違いではなく、当時の社会における異端と主流、あるいは多様性の象徴でもある。 本作は甘美な語り口で綴られるが、決して単に甘いだけの映画ではない。同性愛の問題や、青年同盟の若者が仲間をスパイと疑う相互監視の空気、芸術を愛する者の自由が不当に奪われようとする危機など、当時のキューバが抱えていた深刻な社会矛盾を鋭く問うている。さらに、街に溢れる娼婦やヤミルートの食品といった日常の光景を通じて、理想の裏側に潜む生活の困窮をも克明に描き出した。 ラストシーンで二人が交わす『最後の抱擁』は、政治信条やセクシャリティといったあらゆる境界線を越え、人間としての尊厳を分かち合う感動的な瞬間だ。異なる価値観を持つ他者をいかに受け入れ、共に生きていくか。ハバナの眩しい陽光と色褪せた街並みを背景に描かれるこの物語は、公開から年月を経た今もなお、観る者に普遍的な問いを突きつけてくる。 1994年10月に東京・千代田区の岩波ホールで、私はこの映画を鑑賞した。 『甘くて、ほろ苦(にが)い、キューバ人気質と現実にふれた映画だ』と感じた。 神保町の喧騒を抜け、岩波ホールの静謐な空間でスクリーンと向き合ったあの日の記憶は、今も鮮明だ。ハバナの眩しすぎる陽光とは対照的に、劇中に漂う空気はどこまでも切なく、当時の私には未知の世界であったキューバの「体温」が、直接肌に触れるような感覚を覚えた。異なる価値観をぶつけ合いながらも、最後には互いの孤独を認め合った二人の姿に、単なる国境を越えた友情以上の、人間としての深い慈しみを感じずにはいられなかった。 観終えた後、秋の気配が漂う神保町の街を歩きながら、私はずっと劇中のアイスクリームの味を反芻していた。それは、ディエゴが守り抜こうとした『苺味』の誇りと、ダビドが殻を破って手に入れた『チョコレート味』の深みだ。自分の好きなものを好きだと言い、他人の色をそのまま受け入れる。そんな当たり前のことが、政治や思想、偏見によってこれほどまでに困難になる現実の残酷さに胸が締め付けられた。 あれから長い年月が過ぎたが、私の心の中には今も、あのアパートの屋上で抱擁を交わす二人の影が焼き付いている。世の中は便利になり、多様性という言葉も一般的になったが、私たちがディエゴのような気高い孤独や、ダビドのような誠実な変化を今も持ち合わせているだろうか。あのとき岩波ホールで感じた『ほろ苦さ』は、今もなお、成熟しきれない私の心に柔らかな警鐘を鳴らし続けている。 本作は1995年の第67回アカデミー賞において、外国語映画賞(現在の国際長編映画賞)にノミネートされた。これはキューバ映画史上、初めての快挙であり、現在に至るまで同国唯一のノミネート作品として映画史にその名を刻んでいる。 長らく続いた米国とキューバの政治的な緊張関係を背景にしながらも、本作が描いた『個の尊厳』や『寛容』というテーマは、国境を越えて高く評価された。独裁的な体制下で苦悩する知識人の姿をユーモアと哀愁を交えて描き出した演出力は、ハリウッドをはじめとする世界の映画界に大きな衝撃を与えたと言える。 受賞こそ逃したものの、このノミネートはキューバ映画の芸術性の高さを国際社会に再認識させる重要な契機となった。政治の壁を越え、純粋に物語の持つ普遍的な人間愛が認められた歴史的な瞬間であった。 」 |
セネル・パス(キューバ) |
| クンビア |
「百年の孤独」 「予告された殺人の記録」 |
ガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア) |
| ソン | 「歌手たちはどこから」 | セブリナ・サルドゥイ(キューバ) |
| タンゴ、ボレロ | 「赤い唇」 | マヌエル・プイグ(アルゼンチン) |
|
「蜘蛛女のキス」 「豚の戦記」 |
アドルフォ・ビオイ=カサーレス(アルゼンチン) | |
| 「武器の交換」 | ルイサ・バレンスエラ(アルゼンチン) | |
| アンデス・フォルクローレ | 「深い川」 | ホセ・マリア・アルゲダス(ペルー) |
| メキシコ民謡 |
「ペドロ・パラモ」 「燃える平原」 |
フアン・ルルフォ(メキシコ) |
雪本氏にとって、これらの文学作品は単なる読書ではなかった。そこには、言葉の奥に鳴り響くリズムがあり、登場人物の息づかいの中に音楽が生きていた。 マルケスの「百年の孤独」に流れるクンビアの旋律は、時の輪廻とともにゆったりと揺れ、プイグやカサーレスの描くアルゼンチン文学には、タンゴやボレロのような官能と哀愁が漂っていた。 アルゲダスの「深い川」に潜むアンデスの旋律は、土と祈りのリズムを刻み、ルルフォの「ペドロ・パラモ」には、死者と生者が交錯するメキシコ民謡の悲哀があった。
雪本氏はこうした文学の中に、ラテン世界の“生きるリズム”を感じ取った。 それは貧困や抑圧、政治や歴史を超えて、どの国の人間にも通じる「魂のビート」である。 彼は、ニューヨークで出会ったサルサの夜を思い出しながら、ページをめくるたびに踊るように読み進めた。 言葉が音に変わり、物語がリズムを帯びて脈打つ——そこには、音楽と文学が一体となったもうひとつのラテンアメリカが広がっていた。
雪本氏は後年、こう語っている。 「音楽は耳で聴くものではなく、身体で感じるものだ。文学もまた、意味で読むものではなく、リズムで読むものなのだ」と。 ニューヨークの映画館から始まった一夜の衝撃が、やがて彼の人生と思想を貫く“ラテンの鼓動”へと変わっていった。
雪本はニューヨークに3週間滞在していた。冬の名残を感じる空気の中、ラテンのリズム、ブロードウェイの熱気、ジャズの残り香が入り混じるニューヨークで、偶然出会ったのが映画「マンボ・キングス」だった。
観終えたあと、雪混じりの空気の中でタイムズスクエアのネオンがまぶしく光っていた。
通りを行き交う人々の声に、映画の中のトランペットがまだ響いているように思えた。
雪本は心の中でつぶやいた——
「もう一度、人生を音楽のように鳴らしてみよう」と。
数日後、ソーホーの片隅にあるラテン・クラブ「カサ・デ・ハバナ」で、雪本氏は初めてサルサを踊った。 映画の余韻に誘われて入ったその店では、ニューヨーカーも移民も関係なく、音楽に身を任せていた。
隣の席のプエルトリコ青年が笑いながら言った。 「ステップは間違ってもいい。大事なのはハートだ」。 その言葉が、雪本の心に深く刺さった。 以後、残りの滞在の2週間、彼は夜ごとサルサクラブに通い詰めた。 昼は取材、夜はダンス。身体が音楽と一体になる感覚——それは、文章では表現できない“生の実感”だった。
帰国してまもなく、東京でもラテン音楽の息吹が広がっていた。 渋谷や六本木ではサルサ・バンドのライブが増え、踊れる店も次々とオープンした。 中でも「ムゥチャーチャ(女の子の意)」というライブレストランでは、キューバのプロバンドが快活なリズムを奏で、踊れない人も自然とステップを踏んでいた。
「和製ラテンのパワーはすごい。ネクタイ姿で踊りまくる。圧倒されちゃうよ」。 来日したラテン出身者がそう驚くほど、日本のラテン熱は高まっていた。 キューバ、プエルトリコをはじめ、カリブに広がるサルサやメレンゲが街を満たし始めていた。
音楽ジャーナリストの竹村淳氏は語っていた。 「ラテンが普通に受け入れられる時代になった。 以前はチリのフォルクローレなど政治色の強いものが受けたが、 今は時代や背景に関係なく“いい音”を楽しむ人が増えた」と。
ラテン音楽の多くはスラムや貧困層から生まれた。 だからこそ、明るいリズムの奥に、哀しみと誇りが宿っている。 “なぜこのリズムが生まれたのか”を感じ取ることが、ラテンの本質だと雪本は考えた。
ニューヨークで踊った夜と、日本で取材したサルサの熱狂は、確かに一本の線でつながっていた。 それは「政治」でも「流行」でもない。 ただ、人生を前に進めるためのリズム——その“心地よさ”こそが、ラテンの力だった。
3週間の滞在はあっという間だった。 だが、その間に出会った人々、映画、そして踊った夜が、雪本の生き方を変えた。 「The Mambo Kings」は単なる音楽映画ではない。 それは、人生の“テンポ”を取り戻すためのリハーサルだった。
あの冬のニューヨークで、雪本は初めて「自分の物語」を踊るように生きようと決めた。
1993年のアカデミー賞で、「わが心のマリア」が歌曲賞にノミネートされた。 あの夜タイムズスクエアで聴いた旋律が、世界の舞台へ届いたのだ。 タイムズスクエアの光、ラテンのリズム、サルサの鼓動—— あれから幾年経っても、雪本氏は今でもあの夜の音を胸の奥で聴いている。