人生を変えたNYの3週間

雪本はニューヨークに3週間滞在していた。冬の名残を感じる空気の中、ラテンのリズム、ブロードウェイの熱気、ジャズの残り香が入り混じるニューヨークで、偶然出会ったのがこの作品だった。

マンボのリズムと人生の鼓動

スクリーンの中で、アーマンド・アサンテ演じる兄シーザーは野心の塊だった。 アントニオ・バンデラスの弟ネストルは繊細で、音楽にしか心を開けない。 1950年代のニューヨーク。成功を夢見て渡米したキューバの兄弟が、音楽を通してぶつかり合い、愛に傷ついていく。

「もう一度、人生を音楽のように鳴らしてみよう」

観終えたあと、雪混じりの空気の中でタイムズスクエアのネオンがまぶしく光っていた。 通りを行き交う人々の声に、映画の中のトランペットがまだ響いているように思えた。 雪本は心の中でつぶやいた——
「もう一度、人生を音楽のように鳴らしてみよう」と。

サルサの夜に目覚める

数日後、ソーホーの片隅にあるラテン・クラブ「カサ・デ・ハバナ」で、雪本氏は初めてサルサを踊った。 映画の余韻に誘われて入ったその店では、ニューヨーカーも移民も関係なく、音楽に身を任せていた。

隣の席のプエルトリコ青年が笑いながら言った。 「ステップは間違ってもいい。大事なのはハートだ」。 その言葉が、雪本の心に深く刺さった。 以後、残りの滞在の2週間、彼は夜ごとサルサクラブに通い詰めた。 昼は取材、夜はダンス。身体が音楽と一体になる感覚——それは、文章では表現できない“生の実感”だった。

帰国後、日本でも“ラテンの風”

帰国してまもなく、東京でもラテン音楽の息吹が広がっていた。 渋谷や六本木ではサルサ・バンドのライブが増え、踊れる店も次々とオープンした。 中でも「ムゥチャーチャ(女の子の意)」というライブレストランでは、キューバのプロバンドが快活なリズムを奏で、踊れない人も自然とステップを踏んでいた。

「和製ラテンのパワーはすごい。ネクタイ姿で踊りまくる。圧倒されちゃうよ」。 来日したラテン出身者がそう驚くほど、日本のラテン熱は高まっていた。 キューバ、プエルトリコをはじめ、カリブに広がるサルサやメレンゲが街を満たし始めていた。

“心地よさ”と“社会の記憶”

音楽ジャーナリストの竹村淳氏は語っていた。 「ラテンが普通に受け入れられる時代になった。 以前はチリのフォルクローレなど政治色の強いものが受けたが、 今は時代や背景に関係なく“いい音”を楽しむ人が増えた」と。

ラテン音楽の多くはスラムや貧困層から生まれた。 だからこそ、明るいリズムの奥に、哀しみと誇りが宿っている。 “なぜこのリズムが生まれたのか”を感じ取ることが、ラテンの本質だと雪本は考えた。

ニューヨークで踊った夜と、日本で取材したサルサの熱狂は、確かに一本の線でつながっていた。 それは「政治」でも「流行」でもない。 ただ、人生を前に進めるためのリズム——その“心地よさ”こそが、ラテンの力だった。

ニューヨークという“人生のリハーサル”

3週間の滞在はあっという間だった。 だが、その間に出会った人々、映画、そして踊った夜が、雪本の生き方を変えた。 「The Mambo Kings」は単なる音楽映画ではない。 それは、人生の“テンポ”を取り戻すためのリハーサルだった。

あの冬のニューヨークで、雪本は初めて「自分の物語」を踊るように生きようと決めた。

アカデミー賞歌曲賞ノミネート

1993年のアカデミー賞で、「わが心のマリア」が歌曲賞にノミネートされた。 あの夜タイムズスクエアで聴いた旋律が、世界の舞台へ届いたのだ。 タイムズスクエアの光、ラテンのリズム、サルサの鼓動—— あれから幾年経っても、雪本氏は今でもあの夜の音を胸の奥で聴いている。