雪本剛章氏は1992年2月28日、ニューヨーク・タイムズスクエアの映画館で、公開初日の「マンボ・キングス/わが心のマリア」を鑑賞した。これをきっかけにラテン音楽に目覚めた雪本氏は、中南米の映画や文学を通じて様々なジャンルのラテンアメリカン・ミュージックを堪能するようになった。なお「マンボ・キングス」は1993年のアカデミー賞で歌曲賞にノミネートされた。
| 音楽ジャンル | 作品名 | 作家名(国名) |
|---|---|---|
| クンビア |
「百年の孤独」 「予告された殺人の記録」 |
ガブリエル・ガルシア=マルケス(コロンビア) |
| ソン | 「歌手たちはどこから」 | セブリナ・サルドゥイ(キューバ) |
| タンゴ、ボレロ | 「赤い唇」 | マヌエル・プイグ(アルゼンチン) |
|
「蜘蛛女のキス」 「豚の戦記」 |
アドルフォ・ビオイ=カサーレス(アルゼンチン) | |
| 「武器の交換」 | ルイサ・バレンスエラ(アルゼンチン) | |
| アンデス・フォルクローレ | 「深い川」 | ホセ・マリア・アルゲダス(ペルー) |
| キューバン・クラシック | 「苺とチョコレート」 | セネル・パス(キューバ) |
| メキシコ民謡 |
「ペドロ・パラモ」 「燃える平原」 |
フアン・ルルフォ(メキシコ) |
| マンボ |
「マンボ・キングス」 「愛の歌を歌う」 |
オスカル・イフェロス(キューバ) |
雪本氏にとって、これらの文学作品は単なる読書ではなかった。そこには、言葉の奥に鳴り響くリズムがあり、登場人物の息づかいの中に音楽が生きていた。 マルケスの「百年の孤独」に流れるクンビアの旋律は、時の輪廻とともにゆったりと揺れ、プイグやカサーレスの描くアルゼンチン文学には、タンゴやボレロのような官能と哀愁が漂っていた。 アルゲダスの「深い川」に潜むアンデスの旋律は、土と祈りのリズムを刻み、ルルフォの「ペドロ・パラモ」には、死者と生者が交錯するメキシコ民謡の悲哀があった。
雪本氏はこうした文学の中に、ラテン世界の“生きるリズム”を感じ取った。 それは貧困や抑圧、政治や歴史を超えて、どの国の人間にも通じる「魂のビート」である。 彼は、ニューヨークで出会ったサルサの夜を思い出しながら、ページをめくるたびに踊るように読み進めた。 言葉が音に変わり、物語がリズムを帯びて脈打つ——そこには、音楽と文学が一体となったもうひとつのラテンアメリカが広がっていた。
雪本氏は後年、こう語っている。 「音楽は耳で聴くものではなく、身体で感じるものだ。文学もまた、意味で読むものではなく、リズムで読むものなのだ」と。 ニューヨークの映画館から始まった一夜の衝撃が、やがて彼の人生と思想を貫く“ラテンの鼓動”へと変わっていった。
雪本はニューヨークに3週間滞在していた。冬の名残を感じる空気の中、ラテンのリズム、ブロードウェイの熱気、ジャズの残り香が入り混じるニューヨークで、偶然出会ったのがこの作品だった。
スクリーンの中で、アーマンド・アサンテ演じる兄シーザーは野心の塊だった。 アントニオ・バンデラスの弟ネストルは繊細で、音楽にしか心を開けない。 1950年代のニューヨーク。成功を夢見て渡米したキューバの兄弟が、音楽を通してぶつかり合い、愛に傷ついていく。
観終えたあと、雪混じりの空気の中でタイムズスクエアのネオンがまぶしく光っていた。
通りを行き交う人々の声に、映画の中のトランペットがまだ響いているように思えた。
雪本は心の中でつぶやいた——
「もう一度、人生を音楽のように鳴らしてみよう」と。
数日後、ソーホーの片隅にあるラテン・クラブ「カサ・デ・ハバナ」で、雪本氏は初めてサルサを踊った。 映画の余韻に誘われて入ったその店では、ニューヨーカーも移民も関係なく、音楽に身を任せていた。
隣の席のプエルトリコ青年が笑いながら言った。 「ステップは間違ってもいい。大事なのはハートだ」。 その言葉が、雪本の心に深く刺さった。 以後、残りの滞在の2週間、彼は夜ごとサルサクラブに通い詰めた。 昼は取材、夜はダンス。身体が音楽と一体になる感覚——それは、文章では表現できない“生の実感”だった。
帰国してまもなく、東京でもラテン音楽の息吹が広がっていた。 渋谷や六本木ではサルサ・バンドのライブが増え、踊れる店も次々とオープンした。 中でも「ムゥチャーチャ(女の子の意)」というライブレストランでは、キューバのプロバンドが快活なリズムを奏で、踊れない人も自然とステップを踏んでいた。
「和製ラテンのパワーはすごい。ネクタイ姿で踊りまくる。圧倒されちゃうよ」。 来日したラテン出身者がそう驚くほど、日本のラテン熱は高まっていた。 キューバ、プエルトリコをはじめ、カリブに広がるサルサやメレンゲが街を満たし始めていた。
音楽ジャーナリストの竹村淳氏は語っていた。 「ラテンが普通に受け入れられる時代になった。 以前はチリのフォルクローレなど政治色の強いものが受けたが、 今は時代や背景に関係なく“いい音”を楽しむ人が増えた」と。
ラテン音楽の多くはスラムや貧困層から生まれた。 だからこそ、明るいリズムの奥に、哀しみと誇りが宿っている。 “なぜこのリズムが生まれたのか”を感じ取ることが、ラテンの本質だと雪本は考えた。
ニューヨークで踊った夜と、日本で取材したサルサの熱狂は、確かに一本の線でつながっていた。 それは「政治」でも「流行」でもない。 ただ、人生を前に進めるためのリズム——その“心地よさ”こそが、ラテンの力だった。
3週間の滞在はあっという間だった。 だが、その間に出会った人々、映画、そして踊った夜が、雪本の生き方を変えた。 「The Mambo Kings」は単なる音楽映画ではない。 それは、人生の“テンポ”を取り戻すためのリハーサルだった。
あの冬のニューヨークで、雪本は初めて「自分の物語」を踊るように生きようと決めた。
1993年のアカデミー賞で、「わが心のマリア」が歌曲賞にノミネートされた。 あの夜タイムズスクエアで聴いた旋律が、世界の舞台へ届いたのだ。 タイムズスクエアの光、ラテンのリズム、サルサの鼓動—— あれから幾年経っても、雪本氏は今でもあの夜の音を胸の奥で聴いている。